【幕間一──沈黙の冠】
王都ラウグレイアでは、暁鐘が半年ものあいだ沈黙している。
その日は濃い靄が城塞を包み、衛兵の松明さえ鈍く揺れていた。玉座の間ではエドリアン三世が漆黒の〈沈黙の冠〉を戴いたまま瞼を閉じ、ただ紙へ署名するだけの王令が淡々と続く。
若き宰相補佐シルヴェストル・ルーンは、その無言を前に焦燥を抱え続けていた。
――飢饉と疫病が王都を襲った夜、難民窟で倒れた自分に手を差し伸べ、〈遠くの声を聞く王でありたい〉と語ったあの王の言葉はどこへ行ったのか。
* * *
深夜。王城西翼の書庫。
巡回灯が去る一瞬を狙い、シルヴェストルは蔵鍵をひねる。宰相補佐の印璽は正規の通行証だが、ここに立ち入ることは正式に許されていない。蝋封を割り、埃の通路を抜けると、古い羊皮紙の匂いが肺を刺した。
目当ては、王が声を失う以前に書いた演説の草稿。
――見つかったのは、炎で縁が縮れた紙片だった。震える筆跡でこうある。
《この国を守るには、私は何も知らぬ器であらねばならない》
言葉の主…王自身。
シルヴェストルは息を呑む。さらに束の裏をめくり、焦げ残った軍報告書に目が留まった。
《カストール砦 後衛放棄》
裁可印は紛れもなく王印。余白に走り書きが残る。
〈犠牲を最小に見せるには、声を閉ざすしかない〉
――あの夜、砦で切り捨てられたのは王の意思だった。胸に氷塊のような重さが落ちる。王の沈黙が、エリアス・ヴェルムントの部隊を──そして友を──見捨てた。
* * *
書庫の奥には封鎖された区画がある。
魔封錠をほどき扉を少しだけ開けると、水晶管を束ねた拡声盤が薄闇に並んでいた。そこから低い男声が流れる。
「……粛々と沈黙を守れ……」
王の声ではない。だが、王命として街に響く命令だ。〈冠〉が奪った声を模した偽り――。シルヴェストルは背筋を冷やし、扉をそっと閉じた。
* * *
翌刻まで書庫にこもった彼は、年代記を一冊ずつ検めた。
かつて〈沈黙の冠〉は、正義を示す神聖遺物と讃えられていた。しかし数代を経るうち、「冠は被る者の声を代償に力を与え、やがて心までも侵す」という逸話が記されはじめる。
ページの余白に走る古訓――
《声なき統治は国を滅ぼす》
それでも歴代の王は冠を戴いた。栄光の影で、いくつもの犠牲が積み上がったに違いない。
更に奥の箱から革装の小冊子が出てきた。
題箋は欠けているが、最後のページだけ奇跡的に残る。墨文字はところどころ剥落し、判読できるのは断片だ。
…冠を退ける鍵は 血で汚れた剣 未来を映す鏡 第三の___を…
欠落した一語――「帳…」と読めるかどうか、インクが滲んでいる。
剣ならば黒剣の騎士エリアスを知っている。鏡の使い手は伝承でしか聞かないが、探す価値はある。では、欠けた第三の何かは?
シルヴェストルは小さく息を吐き、古地図を広げた。
北境の廃砦、東方の忘れられた寺院、そして西に横たわる沈黙の湖――三つの候補に印を打つ。すべてを回る時間はない。だが、探さねば王国の声は二度と戻らない。
* * *
夜明け前、玉座の間。
王は今日も沈黙のまま。冠は黒い光を帯び、視線を逸らしたくなるほど重々しい。シルヴェストルはゆっくり膝をつき、かつて自分を救った言葉を思い出す。
「遠くの声を聞く王でありたい」――その願いを取り戻させる。
拳を握り、彼は立ち上がった。まだ灯る松明の下、王都の石畳に足音を響かせる。その靴音だけが、沈黙に支配された街へかすかな希望を告げていた。
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