【第四章 選択の残響】
視えたのは、血だった。
燃える屋敷。濡れた石畳。中央に立つ黒剣の男。遠火の匂いが雨粒の蒸気に混じり、焦げた薬草棚がぱちぱちとはぜる。人影が倒れ、絶叫が瓦屋根に弾かれる。男の瞳は灰色で、刃を振り下ろすたび光をこぼし、やがて切っ先を自らの胸へ――像は霧のように途切れた。
リリアは鏡を伏せた。厚い雲が朝光を遮り、雷が遠くの尾根で籠もる。湖畔の冷気が頬を掠めるのに、鏡を握る掌だけが熱い。耳裏で火薬がまだ爆ぜ、舌の裏に鉄の味が張り付く。
木陰にもたれていたエリアスが声を潜める。
「未来を視たのか」
リリアは頷き、言葉を探した。
「……あなたが人を殺す未来です。誰かは見えない。でもそのあと、あなた自身を――」
焚き火がぱち、と弾けた。エリアスの表情は石の彫像のようだが、瞳の奥で何かが軋む。
「決まった未来か」
「断片です。選び方次第で変えられる。でも、可能性は残る」
エリアスは立ち上がり、黒剣を手に森へ半歩背を向けた。刃の脈動が風と重低音で共鳴し、リリアの胸まで震わせる。離れゆく背を見つめ、彼女は唇をかむ。
「私は……いったん離れます」
足が止まる。振り返らずに問う声だけが届く。
「理由は」
深い息をひとつ。
「私がそばにいれば、あなたは私を信じる。それは嬉しい。でも、その瞬間に剣は鈍る。いざという時、あなたの身を守れないかもしれない。私は、あなたが生き延びる未来を視たい。だから、今は傍にいられない」
湿った空気に落ちた言葉が足元へ沈む。信頼されたい心と、信頼が刃を殺す現実。その裂け目が骨に冷えを染み込ませた。
エリアスは短く息を吐き、肩でだけ頷く。
「……わかった」
それきりだった。黒い背は森に溶け、足音もほどなく消える。
残された静寂が重みを増す。リリアは膝を折り、震えを飲み込んだ。なぜ彼の未来を気に掛けるのか――理由は霧散している。それでも胸の奥に灯った小さな熱だけが消えずに残った。
鏡をしまい、手帳を開く。空白へ細い字を刻む。
《彼から離れる。彼を生かすため。だが未来が赦すなら、かならず探す》
インクが乾く前に風が吹き抜け、雲の切れ目から淡い光が苔を銀色に染めた。それは弱くても確かな道標だった。
リリアは立ち上がる。空気は冷たいが、足取りは迷わない。理由を忘れても選択の重さだけは忘れぬよう、森へ踏み入った。
* * *
湿った落ち葉が靴底に沈み、森の匂いが濃くなる。ギンリョウソウの半透明の茎が夜露を弾き、地面に白い星座を描いていた。枝を払うたび、杉葉の青臭さと野薔薇の甘い香りが交互に漂う。心が削られるたびに世界は薄くなる――それでも感覚はまだ残っている、とリリアは自分に言い聞かせた。
小さな沢を越えた先で、くすんだ野薔薇が群れている。弟が一輪手に笑った記憶がよぎるのに、花の名は出てこない。胸が軋む。彼女は細枝で土を掘り、輪を刻んで立ち去った。「忘れても、ここに見た」という印。記憶を残せないなら、足取りだけでも世界に刻むしかない。
* * *
一方、別の獣道を進むエリアスは、剣の重みを肩で感じていた。信頼を失うほど鋭くなる刃が、このところ鈍っている。理由は明白――リリアを信じかけている自分。〈信じれば弱くなる〉と理解してなお、心は反発する。
帳面を取り出し、膝をついて墨を走らせた。
《俺の剣は鈍っている。理由は、信じたい相手がいるからだ》
書いた瞬間、剣の赤い脈がわずかに光を戻し、黒煙がほとんど消えた。皮肉なものだ、と笑う。背後で枝が折れる音。獣か敵兵かと身構えるが、ただ空の小道。虚脱が残り、帳面を閉じた。
胸に問いが残る。〈強さとは何を斬ることか〉。風が雨を運び、森の匂いを重くする。リリアは雨を嫌うだろうか――思わず口元が揺れ、すぐに首を振った。「関係ない。強くなるのは俺だ」と柄を握り直す。
* * *
黄昏の雲が裂け、雨が細い糸になったころ、リリアは峠道の石橋へ出た。渓流の轟きが谷にこだまし、岩に砕けた飛沫が霧を生む。未来視の像にあった濡れた石質は、この橋脚とよく似ている。最悪の未来は遠くないのかもしれない。
鏡を出しかけ、指を止める。「視れば、また誰かを忘れる」。代わりに手帳へ追記した。
《もし彼を見失っても、この橋を起点に探す》
インクが波紋を広げ、雨粒が一つ落ちて文字を滲ませる。輪郭は残った。リリアはフードを深くかぶり、橋を渡る。向こう岸は霧が濃く、その中心に灯が揺らめく。希望か罠かは分からない。
振り返る。森の暗がり、エリアスの気配はもう届かない。それでも胸の熱だけは、雨にも負けず燃えていた。
「必ず、未来を変える」
小声が霧に溶ける。足音が雨を刻み、選択の残響を谷へ運んでいった。
* * *
夜半、雨は本降りになった。エリアスは岩陰で火を起こし、剣を膝に、焔を見つめる。火花は風に奪われ、闇に散る。その赤い尾が、かつて砦で失った仲間の合図灯を思わせた。――チオ、よく笑う兵だった。裏門で見たのは、彼の首に突き立つ味方の矢。あの瞬間、石礫が飛び、口内を切った鉄の味が今も残る。
焔が揺らぎ、代わりに水鏡の幻が脳裏に浮く。銀髪の女が佇む――最初は亡霊に見えた彼女が、焚き火を求めた旅人になり、今は自分の未来を案じて距離を取ろうとする守護者になった。信頼を恐れる剣士にとって、そんな存在は皮肉にも光だ。
炎が沈み、剣が闇に溶け込む。エリアスは柄にそっと触れた。
「まだ斬るものがある」
問いを胸に閉じ、焔を手で覆って消した。
* * *
明け方、霧が森を覆う。薄紅の光が湿った枝を染める。リリアは雫を払いつつ小道を進む。クロモジの葉に触れると爽やかな香りが立った。名は出てこない。しかし香りが失われた記憶に孔を開け、そこから弟の笑い声が零れ落ちる。顔は伴わず、温度だけが確かに残る。
そのとき、鏡が胸の奥で脈打った。未来の断片が鏡を介さず意識へ流れ込む――石橋、赤い斑点、傾いた剣。リリアは息を呑み、頭を振る。「変えられる」と言い聞かせ歩みを速める。
二股の道。片方は谷へ、片方は高原へ。石橋の岩肌は谷側だ。選択の重さが靴底を沈めるが、背筋は軽い。雲間から射す光が濡れ葉を金に染め、世界は一瞬祝祭の色を帯びる。リリアは鏡を握りしめささやいた。
「忘れても、進む」
光が鏡の奥で細く脈動した。それに応えるように、森の向こうで雷鳴が尾を引く。同じ残響を、離れた場所で剣士も聴いていることを、彼女はまだ知らない。
そして朝の霧が揺れ、二人の決意を包み込んだ。
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