Episode6 泡沫の夢はとうに消え
鬼頭家の地下室には、地獄で一番の天才が棲んでいる。
「さっき、上で戦と会ったよ」
そして、その天才が一切の関わりを持ちたがらず避け続けている相手が、同じ屋根の下に一人。
それがたった今、万の分身たる形代が話題に出した、《地獄殺し》や『戦闘兵器』と称される鬼頭家次女の鬼頭戦だ。類稀な戦闘能力を持ち、そのかわりかのように感情が抜け落ちた、元最強の鬼の少女である。
「……家に帰ってきてるってこと?」
「たぶんね」
戦が閻魔庁で働き始めて三十五日目、解雇から十日後。
そんな相手と自分の形代が遭遇したとの報告を受け、万はわずかに身を固くする。切り揃えられた長い前髪で表情が見えにくいが、口元が引き結ばれていた。
「………………ふーん」
長い沈黙の末にそれだけぽつりと呟いて、万は椅子の上でぐっと小柄な身体を伸ばす。
「もうしばらく地下から出ないほうがいいか……チョコミント、ちょっと台所から砂糖くすねてきてよ。お腹減って死ぬ」
「え、私だって戦に会うのやだよ。自分の記憶が形代に受け継がれてるの忘れてない?」
「それもそっかー……仕方ない、透明になれる形代でも作ろうかな……」
「今日の朝は目玉焼きを作ろうかな」と同じトーンで言っているが、特殊能力を持った形代を新しく造るなど、研究家が聞いたら泡を吹いて卒倒するだろう。
付け加えると、万は発明の才能と共に何の変哲もない食材を毒物に変える才能も授かっており、食べられる目玉焼きを作るほうが難しかったりする。
はあ、と万はため息をついた。
「……最悪だよ。なんでよりによって、仕事が終わったこのタイミングで……」
「忘れ物でもとりに……あー、にしては、ちょっと顔が沈んでたな」
「沈んでた?」
万はふっと顔を上げて姿勢を戻した。期間限定さつまいもと命名された背の高い男を、重たい前髪越しに見上げる。
「沈んでたってなに、どういうこと。落ち込んでたって意味?」
「んーまあ、あとで記憶の共有はしとくけど、一番近い言葉で表すなら」
万の形代は全員、並大抵の人よりよほど優秀な頭脳を持っている。
その頭を回して、期間限定さつまいもは記憶を辿り、引き出しを開いて言葉を探す。
「泣きそう、かな」
「――――は?」
がたんと音を立てて、万が勢いよく立ち上がった。
「なにそれ、なんの冗談? あの戦が泣きそう? 全っ然笑えないんだけど」
「本体」
バニラがとっさに万の袖を掴むが、万はそれを振り払い、ぐしゃりと机の上の書類を握りしめる。
「信じない。僕は絶対、そんなの、戦は」
はく、と唇を震わせて、言葉を失ったそのとき、部屋の中に一枚の御札が舞い込んできた。表面に赤い文様が描かれている。チョコミントが目ざとくそれを見つけ、手にとって覗き込んだ。
「あれ本体、なんかお客さんだよ」
万はその言葉にチョコミントを一瞥して、その手元にある御札へと視線を流したところで、ちっと舌打ちする。
「はー……めんどくさ……仕方ないな、クッキーアンドクリーム、ちょっと行ってきて」
「いつも私だねぇその役?」
本体と同じ長さの髪をひとつにまとめ、縁つきの保護メガネをかけた少女が立ち上がる。彼女の言葉通り、万への依頼人に対する役は大抵クッキーアンドクリームが請け負っていた。
万は基本的に人前に出ることを、というより姿を明かすことを嫌う。本体の前髪を伸ばしているのもそのためだ。だから家族以外の人物と会う時は、形代を通して会話することがほとんどだった。
「まあいいや。本体、ちゃんと私のぶんの報告書まとめといてね」
「へいへい」
机の上で完全に液体と化している万を置いて、クッキーアンドクリームは玄関へと向かう。
庭を抜けて門へと近寄ると、門の外に、すらりと背が高く
溢れるような金髪が流れ落ち、くるりと朱の和傘が傾けば、一目ではっと釘付けになるような傾国の美貌が現れる。さんざめく金髪に飾られた、いくつかの花と絹の髪飾り。
「――この家の者か?」
蝶が舞い揺れる袖でひっそりと口元を隠し、女性は白い首を傾けた。
クッキーアンドクリームは、くらりと酩酊するようなその身に纏う雰囲気と美しさを気にすることもなく、女性の背後へと目を向ける。
ん、と保護メガネの奥の瞳が瞬いた。
見慣れた、というほど見慣れてもいないが、よく見かける長い黒髪に、短く切られた前髪。いつもなら丸い額と大きな瞳がよく見えるのだが、今その瞼は閉じられている。
「……あれ、長女じゃん。何してんの」
クッキーアンドクリームのてのひらが無遠慮に伸びて、鬼頭家長女――
いぶかしげに瞳を細めるクッキーアンドクリームに、女性は淡々と告げた。
「意識はない。突然倒れてしまってな、ちょうど居合わせた妾が運ぶことにしたのじゃ」
「ああ……せっかくわざわざ道具をあげたのに、失敗したんだ。ま、どうせこうなるだろうと思ったけど」
風靡に頼まれて道具を作り、渡したときのことを思い出す。自分の道具に問題があるなどありえない。失敗するとしたら、使う人間に問題がある。
風靡はこれまでにも定期的に、万から様々な用途の道具を貰って使っていた。今までの様子を見る限り道具との相性はかなりよく、なんとか使いこなしてもいたようだが、さすがに大がかりすぎるものは負担が大きかったのだろう。どうせダメなんだからやったって無駄だよ、と当初万は止めたのに。
絶対にやらなきゃだめなの、と押し切った風靡が道具を無理やり受け取って出て行ったと思ったらこれだ。
クッキーアンドクリームは風靡の肩から手を離す。彼女には、元からそう期待していない。万の理想に叶う人物なんて、そう何人も存在しないのだ。
女性はその様子を緩やかな視線で見下ろし、優雅な動作で肩をすくめる。
「いや? 成功はしておったようじゃが。倒れたのはその代償じゃな。恐らく、しばらくは目覚めぬじゃろう」
「ふーん、そういうこと。じゃ、研究室に運んでデータとらなきゃね」
あっさりとそう言ってのけて、風靡の体を女性から受け取り、肩を回して支える。女性は形のいい眉を上げた。
「部屋で休ませてやらぬのか?」
「なんで? 意識がないんだから、どこにいたって変わんないでしょ。ていうか、あんた誰?」
剣呑な目つきで女性を見上げれば、女性は涼やかな目元を細めて紅をひいた唇の端を持ち上げる。
「――おや。仮初の姿で出てくるような相手に、こちらだけ素を晒せと?」
次の瞬間クッキーアンドクリームの瞳に、ざっと冷たい鋭さが宿った。
「……気づいてたのか」
警戒を強めた声が低い。女性はふわりと再び口元を覆い、楚々と笑った。
「お主が形代だということにか? それくらい一目見ればわかるじゃろう。客人に対して偽の姿で対応するのが、お主にとっての礼儀なのか?」
「……そういうお前こそ」
クッキーアンドクリームは、ぎっと鋭い目つきで女性を睨んだ。
こっちだって、一目見たときから見抜いている。
「その見た目、
「おや、見抜かれたか。今日はやたらと変化が効かぬ日じゃの」
煽ったつもりだったが、女性はまったく気にした様子もなくひらりと微笑むばかりだ。まるで大輪の花が、毒をもって揺れるように。
お互いに仮面に隠れた者同士は、静かな均衡のなかでじっと互いの様子を覗き合う。
クッキーアンドクリームはほんの僅かにじりっと後ずさり、奥歯を噛んだ。
形代たちは、並大抵の人よりよほど優秀な頭脳を持っている。記憶もほとんどの思考回路も、万本人から共有されている。
けれど本体と比べれば、比べるまでもないほどスペックに差があった。
今作られている形代全員集まっても、本物の頭脳には叶わない。桁どころか次元が違うのだ。
目の前にいるこの女性は、恐ろしい。
明らかに怖く、そして強い。その頭脳も、どれほど研ぎ澄まされているのか想像もつかない。
自分では彼女と相対するのは不利だ。もしもここに、本体がいたなら。きっと万が直接会話したほうがいい。
さらに小さく後ずさる。と、女性はふいに軽やかに雰囲気を崩して、楽しそうに穏やかな笑い声をあげた。
「すまぬ、すまぬ。そのように警戒せずともよい、妾が脅しすぎた。先程も言ったように、この娘を送り届けに来ただけじゃ。危害を加えようとは思わぬし、そもそも荒事は好かぬ。お主の正体を暴くつもりもない」
「……どうかな」
少なくとも形代を一瞬で見抜くほどの実力の持ち主が、本当にそれだけの用事でこんなところまで来るものだろうか。なにかしら裏の目的があるのだと想定するのが妥当だ。
女性は警戒とかすかな殺気を解かないままのクッキーアンドクリームを見て苦笑すると、色鮮やかなやわらかい唇を細い指先でなぞる。
「まあ、疑いが晴れぬのなら信じなくてもよいが。それよりも彼女を部屋まで運んでやれ。他に怪力の形代などはおらぬのか?」
「それはいるけど」
「ならば後は任せたぞ。ゆっくり休ませることじゃな」
朱に塗られた和傘が翻り、女性の姿がふわりと煙にまかれたように空気にとけて、消える。
その姿が在った場所を睨んで、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「ああ、失敗したんだ。そこまで期待してなかったし、別にいいけど」
期間限定さつまいもによって研究室に運び込まれ、横たわる姉を見下ろして、万はぐしゃりと面倒そうに髪をかき乱す。
「失敗したからじゃなくて、成功したからその代償って言ってたけどね」
「誰が?」
「ここまで長女を連れてきた奴。危険そうだったから、本体が会ったときは気を付けて」
「あー、了解了解。詳しい報告は後で聞く。みんなはもうあがっていいよ。てかあがって。データ取るのは僕が一人でやるから」
「はーい」
「ありがとー」
「おつかれさま本体」
「がんばってねー」
口々に声をかけながら、形代たちが地下に作られた研究室から遠のいていく。
誰もいなくなった部屋で万は、静かに風靡の眠る顔を見下ろした。
様々な器具を扱って、風靡の状態を確認しているうちに、気がつけばとうに日が落ちる時間を過ぎていた。
万は椅子の上で伸びをすると、横に寝させた風靡をちらりと見やる。
規則正しい寝息。でも、起きる気配はない。
ふう、と少しだけ長い息を吐いて、背もたれにぐっと体重をかけた。
「……ばかだなぁ」
まあ、僕も人のこと言えないけど。
身を起こして風靡の顔を覗き込み、まるい額に、そっと小さなてのひらをのせる。
彼女は鬼頭家で一番愚かだ。だけどその愚かさをわかってしまう、今の僕だって腑抜けで。そんなこと、自分が一番わかっているのに。
――鬼頭家は大嫌いだ。どうしようもない亀裂と溝が、人の心を淀ませる。どんどん取り返しのつかない泥沼にひきずりこむ。これ以上こんな家にいたって、ひびわれた空気を吸って呼吸したって、本当は胸がざらつくだけ。
だけどたったひとつの理由がずっと、万を鬼頭家に留めていた。
その理由は、もう、今はいないけれど。とうに消えてしまったけれど。
それでも僕は、此処に居る。
どうしようもない、どこにも行き場のない想いを抱えて。
それでも、此処に居るから。
「……だから、もう少しだけ」
椅子に座り直して、ゆっくりと天井を見上げる。
天井に遮られたこの頭上には、きっと今頃、高い高い、煌めくような星空が広がっているんだろう。本当なら、あなたと見上げたかった。
あなたの存在が、いつだって眩しくてどうしようもなかった。
「ゆるしてね。僕の、一番星」
天井に揺らめく無機質な光に手を伸ばして、そっと、握る。
分かっている。
知っているんだ。
もう二度と、僕もあの人も、昔のようには戻れない。
「でも」
伸ばした手は拳を握ったわけではなく、そう、まるで、やわい光と手を繋いで、結ぶように。
「僕はね」
それをゆっくりとおろして、額を、前髪のおりた目元を隠す。押し殺す。
「ずっと、信じてるんだ。昔の僕ならきっと馬鹿にした、あなたがくれた夢物語を」
泡沫の世界で、きっと、ずっと、あなたのすべてを信じている。
(なんで、僕はこんなにばかなんだろう)
ああ、泣き出したいな。
逃げ出したい。
もうここにいないあなたのことなんて捨てて、何もかも投げ出して、どこか遠くの知らない街まで駆けていけたらいいのに。
でもそうしないことを選んだのは、僕自身だ。
本当に、どうして僕は、こんなに。
「ねえ、僕は、いつかさ」
ぎりぎりの状態で作業を続けていたせいか、睡魔がおもい霧のように全身に漂いはじめる。
ねむたい。
机の上に腕を乗せて、顔をうずめ、眠気に任せて目を閉じた。
「いつか、……ちゃんと――」
ぽつりぽつりと紡いだ言葉は、
泡沫の夢に、とけてゆく。
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