Episode5 その猫の目が見る世界
「う、んぁ……?」
「ああ、目が覚めましたか」
担ぎ上げた男が身動ぎをしたことに気づき、青年はにこやかに彼を地面に落とす。
そう、おろしたのではなく、落とした。ドスンと盛大な音を立てて。
「
「起きたのなら自分の足で歩いてください。人間の成人男性一人くらい重くもなんともありませんが、僕の体が汚れます」
「あ、あぁ……? なんだてめぇ!」
「覚えていませんか? あなたは閻魔庁での裁判に文句をつけて暴れて、気絶したんですよ。誰か外まで運んでほしいというので、ちょうど近くにいた僕がそれを受けました」
戦が閻魔庁に来た翌日、働き始めて一日目――閻魔庁にいる四人が、何より自分の子を想う、最後の死者と向き合っていた頃。
その反対に火亜に殴りかかろうとして戦に吹き飛ばされ、気を失っていた男は、火亜の【連】の札からの頼みに応えた青年によって外まで連行されていた。
成人男性一人を担ぎ上げていたのが信じられないほど細身な体格の青年だ。古代紫色のまっすぐな髪は小さな鈴の髪飾りでひとつに結われ、不揃いな前髪を片目を覆うほど長く伸ばしている。ちらりと見える目は猫のように細く、瞳の色形さえわからなかった。
「最近の人間界は本当にダメですね。そうやって力と金でいろいろ解決できてしまうから、死後の世界でも同じ手を使えば見逃してもらえるなんて甘ったるい考えが蔓延っていく。閻魔大王に暴行? 常識の有無以前の問題ですよ。人の知性どこに置いてきたんですか?」
「……っ!」
男がぎっと紫を睨みあげ、拳を振るう。自分よりも華奢な体躯を見て勝てると思ったのだろうが、紫はあっさりとそれを避けた。
「ほら、そうやってすぐ暴力に走る。
「実際に、それで解決できんだろうがっ!」
紫は端正な顔立ちを崩さぬまま、大きくため息をひとつ。
雲の吐息のような、なめらかな湖水を散らして渡る霧のような。
呼吸も表情も言葉遣いも声もすべて、なにもかもを煙に巻いている、そんな青年だった。
「貴方が、どんな屈強な男も逃げ出したくなくなるほど心折られるうちの獄卒たちの前でも同じことを言えるかどうかはともかくとして……困りましたねぇ、僕は普段清潔に過ごしているので、ゴミ掃除には慣れていないんです」
「あぁ!? 馬鹿にしてんのか!」
「おや、ゴミの自覚はあるようで。ですが、貴方の自認をひとつ訂正しなければ」
紫は再び振り下ろされる拳をかわし、軽やかに微笑んだ。
「馬鹿というのは知能が低い相手に対して使う言葉であって、そもそも知能が存在しない相手を僕は馬鹿とは呼びません。――ところで妙に拳の動きが遅いですが、薬でも盛られたのですか?」
男がぎょっと目を見開き、次の瞬間、大きく体勢を崩す。
その場に重く倒れ込んだ男に向かって、紫は「そうそう」と歌うような足取りで近づいた。
「掃除しなくてすむように、前もって片付けておいたんでした。さすが僕」
そのてのひらをくるりと開けば、そこには透明な瓶がひとつ。
紫は瓶を宙に投げ上げ、ぱしりと捉えた。
「掃除が苦手ならしなければいいんです。天才の発想ですね」
過去の自分を賞賛し、青年はうすく、うつくしく微笑む。
それからくるりと袖を翻して、声も出せずに濁った眼で睨み上げてくる男の前にかがみこんだ。
細い瞳が、男の顔を見下ろすように覗き込む。
「この地獄が呼び寄せるのは、歓迎するのは、未来を変えられる人間だけ。残りは勝手に堕ちて、勝手に咎められるんです」
静かな声が、初めて確かな形を描いて刻まれる。
完全に気を失った男を前に、紫はひらりと身を起こした。
「さて、あとは貴方をしょっぴくだけですが――」
細い指先を顎に添えて、どうしようかと考え込む紫。
と、ざあっと風が吹き抜けた。逢魔ヶ時の色をそのまま垂らしたような、あたたかさより不吉と不気味を感じる暖色。
どこか遠くで、烏が不穏に啼いている。
おや、と紫は顔を上げた。
その長い睫毛が、かすかに震える。
「――これは珍しい」
一瞬のあとに、どこか楽しそうな声がりんと響いた。
「こんなところで、何をなさっているのです? ヤマ殿」
いつの間にか少し先に立っていた男が、ゆっくりと紫に顔を向ける。
夕紅に縁取られた金髪がさらさらと流れて、サングラスの向こうで赤い瞳が細められた。
「君か。そっちこそ、随分珍しいじゃないか」
「おや、そうですか? 僕はただ、罪人を連れて行く途中ですが――ああ、ヤマ殿今から交代してくれませんか? これを他の獄卒のところまで背負いたくないのですが、引きずっていくのも蹴っていくのも重そうで、どうしようか迷っていたんですよ」
「ええ~、私だって嫌だよ。この通り全然体力ないし、めんどくさい仕事は嫌いだし、ていうか今私けっこうハードワーク気味なんだけど」
「貴方がハードワークせずして、この地獄で誰がハードワークするというんです?」
あからさまに嫌そうな顔で肩をすくめるヤマに、紫は面白そうに笑う。
ヤマはますます不機嫌を前面に押し出した。
「……ま、いいけど。ちょうど今の仕事には目途がついたし」
「ああなるほど、仕事中でしたか。それは失礼を。僕はもう行きますので、どうぞ仕事にお戻りください」
「だから今終わったところだよ、これから帰ってしばらく休憩だ。まったく、随分働かせてくれる」
ひらひらと手を振りながら、ヤマは紫の傍を通り過ぎる。
すれ違う瞬間、紫が「そうそう」と口を開いた。
「どうです? 僕の予言は当たりそうですか?」
再び、夕暮れを映した風が吹く。
背中越しに互いの衣と髪が風に遊ばれ、沈黙を風の音がざらざらと擦っていく。
「……さあね。まだ不確定な部分が多すぎる。とはいえ、近いうちに第一段階になると思うけど」
ところで、とヤマが、自分に背を向けたままの紫を振り向いた。
「もしも火亜が、その身に地獄を背負うときがきたら――そのときは、君が火亜のもとにつくんだよね?」
「ええ、勿論。僕はずっとそのつもりですが……まさか、譲位を?」
「いや、そこまではしないさ。――ただ」
ゆっくりと、ヤマの唇の端がつりあがる。
「思ったより、随分早く『そのとき』がきそうだ」
「……なるほど。では僕も、覚悟を決めておかなければなりませんね」
紫が振り向かないまま、ふわりとヤマとは反対方向に踏み出した。
そのまま地面に転がっていた罪人の男を抱え上げ、すたすたと歩く背中が遠ざかっていく。
「今の地獄を、しばらく守り抜いてくださいね。頼みましたよ――私たちは、『共犯』ですから」
お忘れなく、と言い残して、紫の姿は夕暮れの光にぼやけるように滲み、見えなくなる。なにを、とは言わない。
しばらくその後ろ姿を見送っていたヤマは、ひとつ息をついて身を翻した。
「ああ、言われなくても」
一歩、二歩。反対方向へ、ゆっくりと歩く。少しずつ距離が遠くなる。
「次の地獄は、君の思う通りになるといいね。『共犯者』くん」
ヤマの残した言葉が、風に揺られてふっと消えた。
その名字は知られていない。
それどころか彼が名乗る名が本名かどうかも、その姿が実像かどうかさえも。彼の正体は、いつも深淵の底にある。
ただ、もしその深淵がいつか、誰かに向かって開かれるときがくるとするならば。
それは、きっと――。
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