第二部
1 各業界の反応
2034年5月。
トイレット革命が始まって1か月。"トマト事件"は,勢いを増していた。一週間に一度のペースで暴動が起きるのだ。次は自分たちの施設が標的なのではないか。経営陣は決断を迫られていた。
* * *
『恐ろしい時代の前触れのように感じました。どうすればいいか分かりませんでした。緊急会議を開き,対策を考えました。トマトを極力陳列しないようにしました。でもそれだけでは不充分だと皆が感じていました』
──B・ボニツェール。リヨン商業開発。代表取締役。
『たぶん,どの店も同じことを考えたと思います。是非を問う暇はありません』
──F・アビトボル。「コンフリュンアス」CEO。
『話し合いの結果,トイレのマークを変えることになりました。ズボンを「男性用」に,スカートを「女性用」に変えたのです。簡単なことです。費用もかかりません。これによって安全が得られるのでしたら,進んでそうします』
──B・ボニツェール。リヨン商業開発。代表取締役。
* * *
なんと,リヨンの大型商業施設のほとんどが,トイレのマークを隠したり,取り替えたりして,安全対策を行ったのである。
* * *
『腕を組みました。どうすればマークをなくせるのか。とりあえずしっかりした紙に印字してみました。「
『一つ完成したので食品次長とハイタッチしました。店内全てのトイレマークを潰していくのは結構時間が掛かりました。やっとの思いでやり終え,次は「
──ノエル・アジャーニ。「ラ・ルーパデュー」元総務次長。
『マークを変えていくうちに,私たちが社会的弱者のお客様に対して,どれだけ失礼なことをしていたのかと痛感しました。少なくとも私にとっては,自分の見方を変える良いきっかけになりました』
──B・ボニツェール。リヨン商業開発。代表取締役。
『困ったのは,洗浄機能付トイレのボタンでした。トイレによってはボタンにピクトグラムが使われているものがあって,それは変えようがありませんでした。製造元の
──F・アビトボル。「コンフリュンアス」CEO。
『当時はスペイン・ショックのさなかであった。ピクトグラム廃止は,経営存続に不可欠な条件だったのだ。遅れをとるなら,安全を担保できなくなり,客足は遠のく。警備体制の強化だけでは,突発するデモを食い止めることはできない』
──ベルベット・マスク。リュムール誌編集長。
* * *
リヨンの大型商業施設がピクトグラム対策を行ったことは,フィガロ紙でも肯定的に取り上げられた。大手新聞がこの出来事を詳しく扱ったので,我が国の商業界は,性差について真剣に,あるいは否応なく考え始めることになる。
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トイレット革命はフランスの商業に多大な影響を及ぼした。注目してほしいのは,トイレとさほど関係のない業界にさえ,影響が出ることである。では,当のトイレ業界には,どれほど甚大な影響がでるのだろうか。
2 TOL
2034年7月14日。
その時も私は,ラ・ニュヴェレ社のビルにいた。時刻は昼過ぎ。「農園の悲鳴」と題して,低迷するトマトの売り上げを扱った記事をまとめていた。「干ばつの影響です」と簡潔に述べるのがいいのか,「トマト事件の影響です」と深読みすべきか,自分の中でなかなか決着がつかないでいた。一息つこうとコーヒーを飲むと,内線が入った。事件なのか。
急いでデスクを離れ,「電話の主」を探す。彼は,その時も読書をしていた。呼びかけようとすると,「いくぞー! のんたーん! ミラクル・ムーンビーム!」 彼はいつものように奇声を上げ,一回転して軽やかに着地。ビシッとポーズを決めてきた。
静寂。
期待を裏切らない登場,どうもありがとう。紹介しよう。そうだ。ミシェル・ポアソンである。彼は私に気づくと,ウインクしてきて,「悪いモンスターはお仕置きだぞっ」。ジェンダーフリーをはき違えるとこうなるのである。
彼の意識がのんたん(?)から帰ってきたので,呼び出した訳を訊く。すると彼は咳払いをしてから,言い放つのだった。
「トイレが変わるかもしれない」
私たちは階段を駆け下り,キャプチャに乗り込んだ。なんでも「
TOLはフランス最大のユリノワール製造業者
* * *
『胸が高鳴りました。この時期にTOLが動くということは,皆の関心事であるトイレとジェンダーについて,何か新しい進展があるという意味かもしれません』
──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『いや,誤解なきよう。読書ですよ。読書。会社でコスプレなんかしませんから。だけど「美少女戦士のんたん」は不滅です(キリッ)』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
* * *
我々は300マイルの旅をして,パリのホテル「ルーヴル・サント-レノ」に行った。イベントホールの重い扉をくぐると,すでに大勢の記者が機材を並べていた。
* * *
『空気は張り詰めていました。静かに端の方に行って,三脚を組み立て,社長ロバート・チェミレン(Robert Chemillen)を待ちました』
──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『隣の女性が僕を見て,「一体何が始まるのかしら」と言ってきました。なので考えて,「分からない。それを知るためにここにいるんだ」と言っておきました。リリアンはここで僕に惚れたんだと思います』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
──────────
(*1) ユリノワール 便器のこと。
(*2) 具体的には,GWWS(Global mechanism of water works system 管理化水道)機構の導入に伴うトイレ環境の整備。より詳しくは,第Ⅶ部を参照。
『BBF通信のリリアン・ベレッタ(Liliane Beretta)でした。彼女のことは時々耳にします。若いのにどんな現場でも物怖じせず勇敢に取材する姿が,業界で話題になっていました』
──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『彼女はとても綺麗でした。癖のない金髪に碧眼。スタイルは完璧でした。そんな女性が僕に話し掛けてきた。これはすごいことだと思いました。会見中も彼女をちらちら見てしまいました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『ミシェル。おい,ミシェル。そう呼びかけても返事が返ってきませんでした。そろそろボイスレコーダーのチェックをしないと』
──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『彼の第一印象ですか? メガネを掛けているんだなということと,近づきやすい人だなということくらいですね。まー,彼の趣味を知っていれば,絶対に話しかけませんでしたよ(笑い)』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
* * *
時間。マイクを握ったロバート社長が姿を現した。拍手が沸き起こる。彼は手短に報道陣を
* * *
『パッと布が取られました。オフホワイトの洗浄機能付きユリノワールが姿を現しました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『場がどよめきました。チェミレンは“愛あるパッド”の生みの親ジョブズのような形相で立ち続けます。カメラで何枚も写真を撮りました。でも,報道陣を集めた大掛かりなプロモーションに,違和感を覚えたのも事実です』
──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『形状は,なんというか,卵のような楕円体をしていました。そして隣接するように,性別を言葉で表記したパネルが掲げられていました。一目ではトイレだと判りません。さらに画期的なこととして,どのボタンにもピクトグラムが用いられておらず,どんな人でも気おくれすることなく使用できるようになっていました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『社長は言います。「最新作のトイレです!」』
──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『これはアヴァンギャルド(前衛的)であると同時に,強い社会的メッセージを含んでいました。実用性こそなかったかもしれませんが,ジェンダーを意識して,大手ユリノワール業者がこのようなプロモーションを行ったことには,大きな意味があります。そして,フランスの同業者,ひいては世界のトイレ業界に対し,自分たちに足並みを揃えるよう促すものだったのです』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
* * *
この新作トイレ「
元TOL社員の一人はこう語る。
* * *
『新作を投入すると聞いた時,耳を疑いました。もう少し待つべきだと思いました。新作トイレは諸刃の剣。一部の人々の信用を得ることにもなれば,不安や憎悪を煽ることにもなるのです。TOLが先手を切った宣伝活動を行い,危険を冒す必要はどこにあったのでしょうか』
──元TOL幹部。
* * *
専門家の中には,外的圧力を示唆する人もいる。
* * *
『もしあなたが,1,000万ユーロと引き換えに,新しい商品を宣伝するよう言われたならどうでしょうか。しかも,自社の売り上げがその後引き続き伸びていき,スペイン・ショックという大波を切り抜けることができます。人によって答えは変わってくるでしょう。そうです。変わってくるのです』
──ジョージ・ボスト。社会学者。ナテンール大学。
『TOLに外的な圧力があったとすれば,それは大変な事実だ。その責任は,トイレ問題だけにとどまらない。スペイン・ショックによって失業者が増えているその時に,TOLが外因によって自身の経営方針を変えたのであれば,リストラされた者たちは何と言うだろうか』
──ベルベット・マスク。リュムール誌編集長。
* * *
世界屈指の大企業TOLに外圧をかけるとは,一体何者なのか。そのような団体が本当に存在するのか。
我々3人は,トイレの新作発表があってから,ロバート社長のもとへ挨拶に行った。ベレッタ氏が同氏とコネクションがあると言ったからである。自己紹介をし,握手を交わし,新作トイレや社長のアグレッシブな人柄を褒めた。
談笑後,ロバート社長は退室しようと歩みを進めた。その時だった。彼は何を思ったか
* * *
『何のことだかさっぱり分かりませんでした。さすがにそれはないと思いました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『国内のトイレについて一番よく知っているのはTOLです。その社長がこう言ったのです。冗談とはとても思えませんでした』
──私。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『彼は近い将来を憂慮していたのでしょう。自由とは何か,人権とは何かを私たちに考えさせたかったのだと思います』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
* * *
社長ロバート・チェミレンは,確かに我々に言った。
「諸君,今後どんな事態になっても驚いてはいけない。自分をしっかり持ちたまえ。たとえ,この世からトイレがなくなるとしても──」
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