第4話
*
夫とは別の部屋で寝ている。夫は寝室で、私は自分の仕事部屋にマットレスを敷いて。結婚して一年ほどは寝室で一緒に寝ていたが、半年ほど前に私の方からマットレスを移動させた。理由は、同じ部屋で寝ているより、別の部屋で寝ているメリットが勝ってしまったからで、実際、先に寝ている相手に気兼ねなく起きていられるのは楽だった。仕事部屋と寝室の距離は近く、こちらの部屋にいても夫のいびきは聞こえてきた。だから、そこまで離れているわけでもない、と思う。
仕事部屋にエアコンはない。この家はリビングにしかエアコンが付いていないのだ。だから、私はリビングに続く扉を全て開けて、下着だけになって薄いTシャツでくるんだ保冷剤を抱いて横になっている。腕に保冷材の冷たさを感じ、一方で額の端に汗が滲むのを感じる。
前は寝る前にスマホをいじって、ネットやSNSを見ていたけれども、最近はそれもしなくなった。結局、画面の向こうに私が期待したほどのものはなかったという感覚がここ数年どんどん強くなっている。もっと年を取っていれば、ネットやSNSに骨を埋められたのかもしれないが、私は中途半端に若かった。だから、スマホは見ずに、ただ物思いにふけりながら、夢の尻尾が訪れるのを待っている。
今日考えていたのはやはり津田さんのことだった。津田さんは本当に大丈夫だっただろうか。いや、ちゃんと見に戻って、確認はしたけれども。……大丈夫だとしたら、今向こうの世界で何をしているだろうか。
津田さんは私より先に向こう側を知ったようだった。私が初めて向こう側に行った時には、すでに二年ほど向こうで暮らしていた。私は向こうを知ってもこちらに帰って来て眠る生活を続けていたけれども、津田さんは向こうに住み続けていた。曰く、「まだ続いている方の日本は欺瞞だから」と。私はそれが分かるような、分からないような、やっぱり分かるようなそんな気分でいる。私が「なにもない」向こう側に行くのは、きっとリチャードのお使いだけが理由ではなかった。
「ほっとしたんだ、こっちを見た時」
まだ津田さんが東に向けて旅立つ前のことだ。ささやかな焚火で湯を沸かして、サバの缶詰をこちらに渡してくれた。私は所詮こちら側で暮らしているので、向こうでわざわざサバ缶を食べる必要はなかったのだが、津田さんと一緒に話せるのが嬉しかったので、そのまま缶詰を受け取った。
「変かな。でもなんか全部腑に落ちた気がしてさ。続いている方の日本で会社勤めして外で飯食って帰ってきて布団でYouTube観て寝落ちして。別に気持ち悪いとまでは思わなかったけど、どっかしっくりこなかったんだわ。それは俺の生活スタイルがどうこうじゃなくて全部ね。何もかも丸ごと」
津田さんは自分のマグカップに湯を注いで、私には空のマグカップを渡し、顎でやかんを指した。缶詰は手渡しても、湯を入れて渡しはしないくらいが、津田さんと私の距離感だった。
「俺がおかしかったんじゃないんだ。日本がもうなかっただけなんだって」
津田さんは肩を上げて少し笑った。
「俺がおかしいのと、日本がもうないの、本当はどっちがよかったかなあ。薬飲んで治っちゃうくらいなら、俺がおかしい方がよかったけど、精神科行くほどじゃないもんね」
私は咄嗟になんとも言えず、マグカップから湯を飲んだ。水道水よりも丸い味がして、雑味もサバ缶をつまんだ後なら気にならなかった。私は色々不思議に思っていたのだ。一体どうして日本が「なくなった」のか、国がなくなったにせよ、どうしてこうも人がいないのか。人間がパタッといなくなって、後にはひび割れた道路とか壊れた建物ばかりが残っているなんて、まるで情緒優先のポストアポカリプス作品みたいだ。その日の津田さんの雰囲気はどこか柔らかかったので、私はこの前々からの疑問をぶつけてみた。すると、津田さんは黙って湯をすすってから、こう言った。
「……ひょっとして、おとぎ話なのかもしれないね。続いている方の日本でやっていけない人間が共同で作り上げたおとぎ話」
「え……?」
「つまんないってがっかりすんなよ、長瀬。大事なのは、向こうのおとぎ話とこっちのおとぎ話、どっちがリアルかってことなんだから。俺の日本はもうこうやって滅んでる。お前はどっちがリアルだと思うんだ」
私はそこで即答しなかった。即答したら、どちらの答えを言っても嘘だと思ったからだ。津田さんは私の目を見てから、興味をなくしたようにサバ缶を食べた。そうして、次に会ったのが公民館の屋上だった。
私はあの時、どう答えていたらよかったんだろう。今ならどう答えられるだろう。私はあの時から何一つ、私の中で答えが進んでいないことを知る。でも、どうすれば答えを出せるようになるのだろうか。そして、それは何のために?
私はマットレスに横たわりながら、自分の丸みを帯びた短い指を眺める。凡庸で不格好なそれ。目に入るたびにみっともないと思う。本当は指だけじゃなくて、私全体がそうで、何も成し遂げられることなんかない。頭が悪いのか、要領が悪いのか、とにかくうまく説明できない大事な何かが欠けていて、ずっとそのしっぺ返しを食らっている。だから、私は嬉しかった。向こう側の日本が見えた時、他の人にはないものをやっと手に入れられたんだと思った。そして、私がひどく生きづらいものを感じているのは、私ばかりのせいではないのだと。でも、彼らのように向こう側に住めるほど――その感覚も信頼できなかったのだ。そうして、私は中途半端に、それに囚われ続けている。
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