第5話
*
翌日は、昼からリチャードの家を訪れた。向こう側の図書館から引っ張り出してきた、あの赤いハードカバーの本を届けるためだ。私はインターホンを鳴らしてからもう一度本の表紙を見る。刻印された文字はやはり読めない。リチャードが言うには古い郷土史の本らしいのだが。
扉の向こうから大柄な成人男性の重みのある足音が近付いてきて、ドアノブが回った。ドアから斜めに顔を出したリチャードがにこやかに出迎える。
「はい、倫。どうぞ入って」
リチャードに扉を押さえてもらいながら、私は中に入る。リチャードが住むマンションはそこまで高級な物件ではないが、一人暮らしには十分すぎる広さで清潔だった。キッチンにコーヒーメーカーは置いてあるけれども、洗濯かごは見えない所にあって、下着を除く洗濯物が昼間の日光の下、ベランダに干されている。そのくらいの生活感だった。
リビングテーブルに通された私はいつも通り椅子に座り、リチャードはコーヒーメーカーにカップをセットしていた。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ。倫は仕事が早いから」
本業で言われたことのないセリフだな、と私は苦い心地になる。しかし、リチャードのお使いに関しては、彼の言う通りだった。余程探すのに手間取らなければ、依頼されてから二日か三日以内には本を届けた。それは報酬のせいもあるけれども、私がリチャードとの会話を求めているからでもある。リチャードは非常に話しやすい男だった。だからといって、それはリチャードが善人であることを意味しないのだが。
リチャードが私の前にソーサー付きのカップを置く。そして、隣の部屋に行って、茶封筒を取って来てから、自分のカップを片手に向かい側に座った。
「じゃあ、とりあえずこっちから済ませちゃおうか」
私とリチャードは本と茶封筒を交換する。既にお馴染みの手続きでもあるので、この場で中身を確認することはしないが、封筒の中には二万円が入っている。向こう側の図書館から本を持ち出してくる代わりに、二万円を受け取る。それが、私とリチャードの契約だった。
本業にしているWebデザイナーの仕事がほぼ成り立っていない私にとって、リチャードから貰える二万円はありがたかった。それが半壊し、小動物まみれになった図書館に潜り込む危険な作業と引き換えであってもだ。リチャードもそれが分かって、私を雇っている。
リチャードは地元で唯一のプリスクールで先生をしていた。本当は漫画家になるために日本に来たのだが、デビューは叶わなかったらしい。しかし、漫画を描くことはライフワークとして続けている。「プリスクールはアルバイトで、漫画が本業なんだと今でも思っているよ」。私が持ってくる本はその資料というわけだ。
リチャードが描く漫画を私も読ませてもらったことがある。pixivに常時公開されているので、読むこと自体は簡単だ。異常な執着で描き込まれた背景がメインで、少なくとも日本の漫画の体裁をなしていないそれは、向こう側の、まだ滅びていなかった頃の日本を描くものだった。それはこちらの日本に流通する過去の映像や画像とは明らかに何かが異なっていた。自分がとうに忘れ、世界からも失われた記憶の塊が、固体になって投げつけられたらこんな気分になるのだろうか。私はモニターの前で、そのほとんど誰にも顧みられない漫画に、頭をぶん殴られたような心地になった。
「僕がやっていることはテロなんだよ。テロという言葉はどんどん便利になって、問答無用で言われた側を悪いことにするから、僕は他人に対して使わないようにしているけど、僕がやっていることはテロなんだ」
そうリチャードは語るが、彼の漫画が普通の人に読まれたとしても、外国人のちょっと変わったノスタルジックな漫画として受け取られるだけだ。リチャードが本当には何を描いているのか理解する人間は、少なくともネットに感想を残すユーザーの中にはいない。
「僕は信じてるよ。感想を言わない人の中に、倫みたいに頭ぶん殴られているやつがいるって」
リチャードに本を届ける日は、コーヒーか紅茶を一、二杯ごちそうになって帰るのが常だ。私はコーヒーを飲みながら、彼に向こう側の話をした。それはほとんど、津田さんとの顛末を語るのと同じになった。
「そう、津田帰ってきたんだ。僕、津田とはソリが合わなかったな」
そうリチャードは過去形で津田さんのことを語った。私はそれに内心びくつきながらも、単にリチャードがもう津田さんと会う気がないだけだと思おうとした。昔、まだ奥村くんたちもいた頃は、リチャードも含めて近隣にいるみんなで向こう側に集まることもあったが、もうそういうこともなくなった。
「それで? 倫は津田の野郎には何も言い返さなかったの?」
リチャードは伏し目がちにソーサーを持ち上げて穏やかにそう聞いてきた。表面上穏やかではあるけれども、私をそうして値踏みしているのが分かった。値踏みした結果の価値に、リチャードはほとんど興味がないだろうけれども。
「何かが終わっている時は、何かが始まっているんだって、私それだけ言って」
「へえ!」
リチャードのブルーグレイの瞳がかすかに明るくなった。ソーサーを握りこぶし一つ分さっきより下げている。
「詳しく教えてよ。なんでそう思ったの?」
「なんとなく……」
「なんとなく、ね。いいよ、直感は大事だ」
リチャードはカップを口に運んだ。そして、私から視線を外して、赤いハードカバーの本をぱらぱらとめくった。
「倫、これは当たりだよ。僕が知りたかった港のことがちゃんと書いてある」
その興奮の滲んだ声は半分作ったものであろうけれど、きっと半分は本当だった。リチャードが喜んでいても、私はそのページが読めない。逆向きにはなっているのはあるけれど、私にはその日本語がどうしても読めない。
「……リチャードは、最初から文字が読めたの?」
リチャードは手を止める。そして、溜息交じりに、「ねえ倫、僕に日本人の親戚はいないよ。一から勉強したに決まってるじゃないか」と言った。
「でも、聞きたいのはそういうことじゃないよね。そうだ。僕はそれまで勉強した知識で問題なく向こうの日本語が読めた。なんで君たちが読めないのか、感覚では分からないくらいだ。君たちとは日本語との距離感が違うんだよ」
私は聞き逃せないフレーズを聞き返す。
「たち?」
「津田も読めなかったよ。隠してたけどね」
私は思わず口を開ける。津田さんも読めなかった? そんな訳はない。だって、津田さんは案内標識の文字も読めたし、旅に出る直前にはいくつか地図入りの本も読んでいた。そう言うと、リチャードは首を振る。
「津田も初めて会った時は全然読めなかった。僕が読めるので狼狽えてたよ。カッコつけてるくせに分かりやすいやつだよね。あいつはそれから日本語を勉強し直して読めるようになったのさ。まあ、実際どのくらい読めるようになったんだか、僕は知らないけれど」
私は半ば放心してしまう。そして、津田さんは私には何も教えてくれなかったのだなと思った。いや、色々教えてくれた。色々教えてくれたけれども。でも、津田さんも同じだと知っていたなら、私はリチャードのお使いをしながらこんなに心細い思いをしなくても済んだのではないか。
そして、勉強し直せるということ。私はこれまで、向こうの日本語をただ読めないものとして諦めていたが、勉強し直せば少なくとも多少は読めるようになるとは新たな発見だった。どうして、これまでそれをしようと思わなかったのだろう。
「私も勉強したいな……」
「なら、テキストを貸してあげる。二〇〇一年に初めて日本に来た時、東京の大きな本屋で買ったんだ」
「えっ、でも」
リチャードは戸惑う私をよそに隣の部屋に行く。しばらく本棚を探る音が聞こえて、扉の向こうから黄ばんだソフトカバーの本を片手に戻ってきた。
「それじゃ、こっちの日本の日本語教科書と変わんないんじゃないかと思うんだろ? いいから開いてみなよ」
私はその本を受け取り、前半の方のページをそろりと開いてみる。横書きの文字列が目に入って来る。英訳とローマ字による転写、その上にあるのは日本語。それは向こう側の、私には読めない「日本語」だった。私は顔を上げてリチャードを見る。
「なんで。二〇〇一年にも向こうに行ったの?」
リチャードは眼鏡の奥から真直ぐに私を見ている。
「単純に答えるならイエスだ。僕が二〇〇一年に行ったのは向こう側の日本だった。だが、僕は別におかしなトンネルは通っていない。単にアメリカから飛行機で羽田に着いただけだ。そこは今、僕らが『向こう側』と呼んでいる日本だった」
私はテキストを持っていない方の手で頭を押さえる。そう、言われてみれば、私も幼い頃にあの図書館が市民で混み合っているのを見たことがあるのだ。図書館はこちら側にもある。だが、あの、私が幼い頃に行った図書館はどちらの図書館だ? なぜ私はリチャードの漫画を読んで衝撃を受けるのか。記憶があるのではないか。あの頃、私が暮らしていた日本は一体、どちらの日本だ?
「だからね、倫。これは最近僕の母国の映画で流行っているようなマルチバースの世界で、限られた人間が違う宇宙の日本に行けるようになったとか、そういう単純な話じゃないんだ。事態は多分もっと複雑なんだよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます