第3話
*
玄関扉を開けて顔を上げると、リビングに続くスライドドアのガラス部分がぼうっと明るく光っていて、人のいる家に帰ってきたのだと実感した。それから本を靴箱の上に置いて、スニーカーの踵を軽く踏みながら脱いでいるところで、夫がスライドドアを引いて顔を覗かせた。
「おかえり。遅かったね」
「そうかも。ごめん、待たせちゃったね」
私はフローリングの廊下に一歩踏み出してから、ふと気になって袖のにおいを嗅ぐ。無視しきれない獣糞の臭いがした。
「ごめん、ちょっと着替えてくるね」
私は洗濯機置き場の引き出しから洗濯ネットを三枚取って、自分の仕事部屋に引っ込む。そして、すっかり裸になりながら、着ていた服と下着をネットに入れていった。他の洗濯物とは混ぜずに、明日夫がいない時間にこれだけで洗おうと思った。そして、押し入れにある半透明の収納ケースから下着と部屋着を取り出して着替えた。
私は部屋着から漂うお馴染みの洗剤の匂いに安心しながら、努めて明るい顔をしてリビングに向かう。何事もなかったかのように。ちょっと近所の図書館から本を借りてきただけというように。そして、津田さんの一件などなかったかのように。夫は、向こう側を知らない。
リビングのテーブルにはすでに夕飯が用意されていた。野菜炒めらしき何かはラップがかけられ、内側から水滴がついている。私があんまり遅かったから、レンジで温め直したのだと分かった。
横から私を抱き締めてこようとする夫を指先で軽く留めて笑顔を向ける。着替えはしたが、肌に付いている臭いはごまかせないと思ったからだ。
「ごはんありがとう」
「いえいえ。今日は僕の当番だからね」
私はお腹を空かせているふりをして夫から離れ、椅子に座った。夫も機嫌を悪くすることなく、向かい側に座る。目を見合わせてから、合掌して食べ始めた。
野菜炒めと、味噌汁と、白ごはん。いつも通りの構成。そう、ごはんと汁物と、何か一品のおかずさえあれば、夕飯は成り立つ。私たちはそうして暮らしている。箸を動かしながら喋るのは取りとめもない話で、夫が勤めている飲食店にやって来た客の面白エピソードや、政治家の幼稚な発言などをどれも十パーセントくらいの真面目さで喋った。ご飯時の会話だ。真面目である必要などない。夫とはほとんどこういうタイミングでしか話をしないのだが。
私は夫と違いほとんど現金を扱わないので、まだ新札を拝んでいないという話題の途中で、夫が慌ててリモコンを取った。
「今日ラピュタだった!」
ここ数ヶ月棚の上でただの置物と化していたテレビに電源がつき、雷雲の中突き進む飛行船が映し出される。もう金曜ロードショーが始まってからしばらく経っているようだった。夫が私の帰りを遅かったと言ったのも無理はない。
夫は野菜炒めに箸を伸ばすのをやめて、テレビに見入っている。だが、私はしばらく画面を見て、その私が生まれるよりも随分前に作られたアニメがいまだに面白過ぎる気がしてなんだかつらくなったので、食事に集中することにした。そして、箸を伸ばしながら、向こう側の日本にも、『天空の城ラピュタ』のビデオやDVDはあるだろうと思った。
果たして、そのラピュタはこっちのラピュタと同じだろうか。理屈の上では同じであっておかしくないのだが、どうも何かが少し違うのではないかと思った。実際、私は向こう側の日本語で書かれた本を読むことができない。向こうの日本語とこっちの日本語は違う。向こうでは電力供給が絶えて久しいけれども、何らかの方法で発電してビデオを再生したならば、その時ラピュタの登場人物はどんな言葉で会話するのだろう。
一体、こうして馬鹿らしいことを考えている私は何なのか。向こう側の日本とこちら側の日本を行き来して、どちらの国民なんだろう。片方はもう滅んでいるんだから、この問いはナンセンスだろうか。
「どうしたの?」
私の箸がしばらく止まっていたのだろう。あるいは険しい顔をしていたのだろうか。夫が三割の心配と七割の期待が混じった顔でこちらを見ていた。
「いや、なんでも――」
以前、夫とあのトンネルを越えたことがある。観光地の一角にある、あの向こう側に続くトンネル。二人で休日に散歩していた時、そういえばあのトンネルを通ったことがないと夫が言い出して、私の手を引いて進んで行った。当時、私はもう向こう側に行ったことがあったから、手を引かれながら不安だった。夫が、あの滅びた世界を見てどう思うのか想像がつかなかった。知ってほしいという気持ちもあったが、どうも悪い予感の方が強かった。
だが、夫と抜けたトンネルの先はごくありふれた住宅街だった。景色は、向こう側の日本とおおまかには似ていながら、年月の分と少し何かが違っていた。「なんだ、案外普通だったね」と言って、夫はまた私の手を引いて引き返した。そうして、私はこちら側で、「既に滅びた日本」があまり話題にならない理由を知った。
しかし、私のようにこちら側から向こう側に行ける人間もいる。すっかり向こうの住人のようになった津田さんや奥村くんも元はそうだったし、リチャードもそうだ。向こう側に行ける人と行けない人の違いがどこにあるのか、私には分からない。そして、行けるということが、必ずしも良いことではないのは、私にも分かった。
「
夫は笑顔で、そして軽い調子でそう言ったが、半ば本気なようだった。私はここ数年ずっと夫に隠し事をしているようなものなのだから、無理もなかった。そこで、何か隠しているんだろうと私を責めずに、信頼を口にするのが夫の弱さでもあり、善良さでもあるのだと思う。「幸せにしたかったのにな」と、私は既に過去形で考えている。
「ちょっと仕事が上手くいかなくてね」
私がここで言い訳に使った仕事はリチャードに依頼されている仕事ではない。こちら側で本業のようにしているWebデザイナーの仕事だ。フリーランスで依頼を受けているが、近年Webデザイナーもどきは市場に溢れていて、競争が激しくなっていた。私にもっとスキルがあれば関係ないのかもしれないが、私はそこまで腕が良くない。だから、「仕事が上手くいかない」というのは事実ではある。
「そっか……」
夫は納得しきっていないようだが、頷いてみせた。そして笑顔で、「大丈夫だよ。倫ちゃんは僕と二人で暮らしているんだからね」と言った。なんだか嬉しそうだった。
だから、私は、この人を幸せにするべきだったんだけどな、とまた考えた。
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