2.存在しない妹をさがさないでください

 ◆

 

 放課後、普段の翔ならば家に帰って荷物を置いた後に友達の家に遊びに行くが、今日だけは学校からそのまま吉彦の家に向かった。家に真っ直ぐに帰るのが恐ろしかった。普通ならば剥がされているのだろうが、もしも平然とポスターが残っていたらと思うと、いや、ポスターを見た場所を通るだけでも恐ろしかった。

 直行した吉彦の部屋でテレビ画面を睨みつけるようにしてゲームで遊ぶ。二人きりだった。数が多ければ少しはマシだったのかもしれないが、陸斗も海人も塾でいない。

 画面の中でキャラクターが躍動し、勝敗に一喜一憂していられる間も漠然とした不安感は残っていた。

「翔、今日の朝、ポスターの話したじゃん」

 コントローラーを操作しながら、特に翔を見やるでもなく吉彦が言った。

「え、あ、うん……俺の作り話な!」

 翔は一瞬の動揺を飲み込んで、大声を出して作り話を誇張する。

「マジじゃないのか?」

 画面を見たままの吉彦の表情はわからなかった。

「なんで? 作り話って言ったじゃん」

「作り話にしては……なんか曖昧すぎるっていうか、例えば死んだ妹を探さないでください、だったら、わかるじゃん。死んだ妹が幽霊になったとか、ゾンビになったとか、そういうのがわかるし、実は俺には死んだ妹がいたんだ……とか、母親が妹の死に未だに取り憑かれているとか、まあオチの方向性がわかるじゃん。存在しない妹ってなに?」

「なにって言われても……いない妹としか……」

「自分でも説明できないような話するか?」

 そう言った後、吉彦は独り言のように「まあ、俺はするけどさぁ……」と続けた。

「でも、お前はしないと思うね……ポスター、マジで見たんじゃないか?」

 しばらくの間、吉彦の部屋に言葉はなかった。

 ただ、画面から発せられるゲームの音だけが形になった沈黙のように部屋を支配していた。

「見た」

 絞り出すように、翔は言った。

「多分、お前が不安に思うようなことは起きねぇよ」

 安心させるように吉彦が言った。

「世界中の人間がお前の名前を知ってるわけじゃないんだから、先生に言って、犯人を探してもらって……それで終わりだよ」

 互いに顔は見れなかった。どこか気恥ずかしい思いがあった。それでいて、胸のあたりにじんわりとした熱があった。

「吉彦……ありがとう」

「うっせ」

 吉彦の言葉はそっけなかったが、それで良いと思った。

 翔の中から恐怖は消えていた。

 五時半になって家を出る。空はまだ青く、そして明るかった。

 照りつけるような夏の陽射しが和らいで心地よさすら感じていた。

 問題はまだ解決されていなかったが、翔の足取りは軽やかだった。解決されたも同然だった。

 世界中の人間が自分の名前を知っているわけじゃない――確かにそうだ。他のクラス、他の学年の生徒が犯人ということがあるかもしれないが、それだって別に大したことじゃない。

 結局は人間のやっていることで、自分が恐れるようなことなど起きようがない。

「……誰が、こんなことを」

 帰り道、ポスターの貼られていた場所に木製のかごを背負った老人が一人いた。

 坂崎という、同じ町内会のおじいさんで翔は下の名前を知らない。

 ボランティアで町内の清掃活動をしている人なのだと母親に聞いたことがあったし、実際翔自身も何度か清掃中の坂崎を見たことがあった。

 朝に見たポスターは今まさに坂崎の手によって剥がされようとする瞬間だった。

「おお、須藤さんところの翔くん……こんにちは、いや時間的にはこんばんは、かな?」

「こんばんは、坂崎さん……どうかしました?」

 坂崎は誰に対しても満面の笑みで話しかけるような好々爺であったが、今日の坂崎の笑みにはどこか困惑するようなものが混じっていた。

「いやあ、なんだろうねぇ……今日は変なイタズラが多くてねぇ」

「変なイタズラが……多い?」

「……うん、いや、まあ君は関係ないんだろうけど、ねぇ……」

 困ったように言うと、坂崎は背負っていたかごを置くと、その中から数十枚の紙束を取り出した。そのサイズは、今剥がされたばかりのポスターと一致していた。濡れた手で背中を下から上に撫でられたような気がして、翔は思わず後ろを振り返った。誰もいない。その不快感も、恐怖も、自分の内側から生じたものだった。

 「なんか同じようなポスターが許可も取らずにいっぱい貼ってあって、困ったねぇ……」

「な、なんて書いてあったんですか……」

「いや、私も目があんま良くないからねぇ……わざわざ見ようとも思わんのよ」

 そう言って、坂崎がポスターを手にとって顔を近づけようとしたのを――思わず、翔は奪い取っていた。

「なに?なに?なに?」

「いえ、その……いや、特になんかあるというわけでもないんですけど……」

 翔の手の中にあったのはただの紙だった。

 いわゆるポスターの紙質であるどこかつるりとした滑らかなものではなく、コピー用紙のそれだ。

「……その、良かったら、そのポスター貰えませんか?」

「ん?なんで?」

「いや……その……裏面を使いたくて、絵とか描くのに使いたいんですよ……」

「ああ、なるほど……私の孫も、チラシの裏側に落書きをしていたなぁ」

 懐かしむように坂崎は視線を上に向けると、あっさりとポスターの束を翔に渡した。

 左手で剥がされたばかりのポスターを持ったまま、右手で束を受け取ろうとして――思わず、その手を引っ込めた。

「切ったかい!?」

「いえ、大丈夫です……一瞬、なんか」

 掴んだ紙が、一瞬、ぐじゅりと湿った音を立てて潰れる――そんな錯覚に襲われて、思わず翔は手を離した。大丈夫です、大丈夫です、そう言いながら地面に散らばったポスターを拾い集める。当然、さっきのは錯覚だ。手に収まったところであるものは乾いた質感だけだ。握りしめたポスターが手の中で血塗れで潰れているわけもない。

 今すぐにでもゴミ箱に捨てたかった、こんなものは坂崎さんに任せたままにしたかった。

 けれど――翔の頭に証拠という言葉が頭をよぎる。先生に見せるために、しっかりと証拠を用意しないといけない――そう自分を奮い立たせた。それに、自分の名前が書かれたこのようなポスターなど他人に見られたくはなかった。今日の夕方に回収されたものなのだから、誰かが既に見ているだろうけれど――そこまで考えて、翔は坂崎に尋ねた。

「あの、坂崎さん」

「どうしたんだい?」

「あの……このポスターって……どこに貼られてて、いつ貼られたかわかりますか?」

 翔は登校中に一枚しかポスターを見なかった。それは見落としただけだったのか――あるいは翔が登校している途中か、放課後に誰かが新しくポスターを貼ったのか。

 見落としただけならば、良い。良くはないけれど、納得は出来る。放課後に貼ったというのもイヤだけれど、やはりわかる。

 ただ、もしも登校中に新しくポスターが貼られていたとなれば、クラスメイトの仕業ではなくなる。今日は誰も休んではいないからだ。他のクラスか、あるいは別学年の生徒の仕業か。

「誰が貼ったかまではわからないけれど……、こう……ポスターが一本の道になるように……」

 坂崎がポスターの貼られた位置を説明する。それは完全に翔の通学路と一致していた。

 本物――その言葉が翔の脳裏を過ぎる。もしかしたら全く知らない誰かの仕業なのかも知れないのだ。自分に存在しない妹を探させようとする知らない誰かの。

 翔は足早に家へと向かった。自分の汗がヘドロのように不快だった。

 住宅街の奥まったところにある二階建ての一軒家――それが翔の家だ。夕食はカレーらしい。外にいても匂いがわかる。普段ならこれ以上となく、心を弾ませるものが、今はちっとも嬉しくない。

 家にたどり着くまで――いや、家にたどり着いても顔を上げることは出来なかった。友達と喧嘩したことがあっても欠かさなかった「ただいま」も言えなかった。

「おかえり、翔」

「うわぁ!」

 母の声に思わず身体が跳ね上がった。

「どうしたの、そんなにびっくりして」

「いえ、いや、その……なんでもない……ただいま……」

 存在しない妹が何を意味しているのかはわからない。

 ただ、もしも自分が「ただいま」と言って、もしも両親以外の「おかえり」という声が聞こえてしまったのならば――いよいよ自分は耐えきれなくなってしまっていただろう。

「あ、あ、あのさ……お母さん……」

「なぁに?」

「あ、あの……うちって……」

 言うべき言葉ははっきりとわかっていたのに、言葉は身体の底に深く沈んでいて、なんど舌で捕まえようとしても上手く話せなかった。

 口の中はからからに乾いていた。だというのに、身体は寒さすら覚えていた。

「い、妹って……いないよね……」

「いない」

「えっ」

「わよ、何言ってんの」

 一瞬、温度のない言葉が母親の口から聞こえた気がした。翔をバッサリと切り捨てるような無機質な一言。けれど、それはあくまでも一瞬のことで、続く母親の言葉は温かな日常のそれに戻っていた。

「もしかして、妹が欲しくなっちゃった!?」

 やたらに明るく母親が言った。

「いや、そういうわけじゃなくて……」

「ん、何持ってんの……?」

 母が翔の持つ紙束を見やった。頭から指の先まで血の代わりに、冷たくどろどろとした不安や恐怖が流れているような今の翔でも、少しはまともなものは残っていた。先生に見せる前に、まず親に相談する。その自分の中のまともな部分というものが翔にそう言った。自分の中から出てきた言葉であるというのに「確かにそうだな」と他人事のように納得する。

「なんでもない、ちょっと部屋に戻るね……」

 しかし、実際に出てきた言葉はそれだった。紙束を抱えて一人で階段を上がる。

 顔は上げない。ただ階段だけを見つめながら上る。壁が怖かった――もしも、ポスターが貼られていたら、と思うと――それも、家の中にまで貼られていたのならば、どこにも逃げ場なんてものはない。

 翔の部屋は階段を上がって右のところにある。一人で使うには多少広い部屋だ。その四分の一は段ボールに占拠されている。その中には幼児の頃に遊んでいて、どうせもう遊ばないだろうなと思っていてもなんとなく捨てられない玩具が詰まっている。

 翔は夏の布団代わりのタオルケットを被り、ベッドにうつ伏せになった。

 見せれば良かった。

 タオルケットの代わりに後悔に包まれているように全身が重かった。見せて、ポスターについて相談して、先生に犯人を探してもらうと言うなら、保護者を通じての方がやりやすいだろう。それで、犯人を見つけて――なんでもないただのイタズラであるとわかって、また普通の毎日に戻って、いや――犯人が見つからなかったとしても。

 両親が「お前に妹なんていない、ただのたちの悪いいたずらだ」そう言ってさえくれれば――しばらくは不安になるだろうけれど、すぐに忘れる――きっと、忘れることが出来る。祈るように翔は思った。

 だから、こんなベッドで寝ている場合ではない。起き上がって、こんなポスターがあって、怖い。そう言えばいいだけのことなのに。出来ない。

 こんなよくわからないものでビビってる姿を見られたくなくて、知られたくなくて、俺は常に元気な姿を皆に見せたいんだよな。そりゃ風邪を引いたり宿題に追い詰められたり、テスト全然わからなかったり、友達と喧嘩したりすることはあるけれど、でも自分の手に負える範囲の姿だけを見せたくて、なんでかっていうとそれは俺のせいでお母さんとお父さんが悲しんでいる姿を見たくないからっていうか、そういうのは自分でもよくわからないんだけど、でも、そういうものを見られるのって怖いっていうか、みっともないっていうか、とにかく自分の心の不安って自分の内側にだけ納めておけば誰にもわからないから、本当は先生にも言いたくなくて、友達にも本当は知られたくなくて、だって、いつだって元気な自分しか相手に見せたくない……そういう面倒くささで俺は嫌われたくないし、信じてもらえなかったら本当にどうしようもない最後の手段が消えてしまうってことだし……思考が巡る。翔自身はうまく言葉に出来なかったが、つまり恐ろしかったのだ。自分が苦しんでいる姿を見られることも、ポスターを見せて、ただのイタズラだよ。と切り捨てられてしまうことが恐ろしかった。自分の恐怖の一パーセントも、信頼する両親と共有できないかもしれないことが恐ろしかった。他者が平然と解決してしまうようなものを自分だけが苦しんで、それで誰かから見捨てられるようなことが恐ろしかった。自分の怯える姿で両親も悲しんでしまうかもしれない、それが嫌だった。

 そして、黙っていればわからない不安な自分という自分の中のもっとも繊細な部分が耳目に晒されることが恐ろしかった。子どもには子どもなりの尊厳というものがあって、無条件に庇護される立場になることでその尊厳が傷つくことが恐ろしかった。そういうものがあった。

 気がつくと、眠っていた。

 カーテンを閉めないまま眠ってしまったからか、朝日が部屋の中に射し込んでくる。薄いタオルケット越しに明るい光が見えた。間違いなく朝だけれど、時間はわからない。壁時計を見れば一発でわかるけれど、その勇気もない。

 カレー食べなかったな、と他人事のように思った。風邪の時だって、カレーと聞けば起き上がれただろうに、全く食欲が湧かなかった。

 一生、ベッドの中にいたい――そう思いながら、翔は起き上がり、視線を下に落とした。小さい女の子がお世話をして遊ぶ人女児形のようなものが床に転がっていた。それから翔が小さいころによく遊んでいたミニカーと、ヒーローの人形。

 部屋の端にはもう使わなくなった玩具が段ボール詰めにされている――そこから、こぼれたのか。寝ぼけた頭でそんなことを考えたが、そんなことがあるわけないとすぐに気づいた。

――段ボールが開いてると、中身が目に入って、遊ぶわけでもないのに昔こういうので遊んだなぁ~って懐かしさを確認するためだけに散らかすでしょ?

 翔の脳裏に母親の言葉が過ぎる。段ボールにはガムテープでしっかりと封がされているはずだ。

 それを確かめるために部屋の隅の段ボールの群れに向かい――すぐに気づく。段ボールの蓋が開いている。誰かが開けたのだろう。心当たりはなかった。自分が? 翔にはその覚えもない。

 出したら片付ける。小さい頃にろくに守らなかったルールに突き動かされるように、翔は出されたおもちゃに向かって手を伸ばした。とにかく視界に入れたくなかった。そこでようやく気づく。ミニカーもヒーローの人形も、自分のものだ。だが、女の子の人形なんて自分は持っていない。

 冷たくて巨大な舌が自分の背を舐め上げるかのような不安と恐怖が翔を襲った。そもそも、自分は小さい女の子が遊ぶような人形に興味はなかった。段ボールの中に入っているはずがない。お母さんだって、お父さんだって、こんな人形で遊ぶ趣味はなかったはずだ。

 部屋の中を見回す。一人で使うには少し広い部屋を。隙間を段ボールで埋めたって問題ないぐらいに広い部屋を。中には翔以外に誰もいない。

「いたの……?」

 小さな子どものような問いかけに、存在しないものからの返事はなかった。


 【つづく】

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僕の妹をさがさないでください 春海水亭 @teasugar3g

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