僕の妹をさがさないでください

春海水亭

第一話「存在しない妹をさがさないでください」

1.存在しない妹をさがさないでください


 ◆

 

 六月もそろそろ終わる。

 申し訳程度の雨が降っていた二日間が梅雨だったことに後から気づいて、迎えた覚えもないままに、梅雨は明けてしまった。空には雲一つなく、陽光を遮ってくれるものは何も無い。抜けるような青空に憎らしさを覚えるような――そんなある日のことだった。

 

【探さないでください】

 名前:須藤陽菜ちゃん

 特徴:存在しません

 備考:須藤翔くんの妹です

 

 そのポスターは須藤すどうしょうの通学路のブロック塀にセロテープで貼られていた。

「なんだこれ……?」

 翔はそれを見て思わず、口に出していた。

 そのポスターには男か女かもわからない、おそらく本人の特徴を何一つとして捉えていないであろう幼児の描いたような似顔絵があった。連絡先らしき最下部の文字列は黒いマジックペンでぐちょぐちょに塗りつぶされている。こういうポスターを作るなら、パソコンでも使えばいいのに、文字は手書きのようで、どこか丸みのある綺麗な字で自分には書けそうにない。

 そういうものが翔の目線の先にあった。

 須藤翔はごく普通の小学五年生の男子である。身長は百四十五センチメートル、平均よりも少し高いが特別に高いわけでもない。体重は四十キログラムに満たないぐらいで太りすぎているわけでも痩せすぎているわけでもない。年齢に見合わないような特別な才能があるわけでもなければ、勉強や運動で秀でているわけでもない。かといって格段に劣っているわけでもない。

 そんな彼に存在しない妹の心当たりなどあるはずがなかった。そもそも存在しない妹どころか、妹自体がいないのだ。

 誰かのいたずらだろう。翔は思った。最初は不気味に思ったが、冷静になって考えてみればそれ以外にありえない。翔の家は住宅街の奥まったところにあって、登下校の際は他の生徒が通らない道を少しの間、一人で歩くことになる――つまり、名指しのポスターで翔を狙い撃ち出来ることになる。

 周りを見渡す。誰かが電信柱に隠れていたり、あるいはブロック塀の裏に隠れて、自分を穴から見ているということはないらしい。

 ちょっと付き合ってやるか、と翔は思った。 

 時間に余裕を持って登校しているから、多少ポスターを気にしたところで遅刻するようなことはない。休み時間の話題にでもしてやればいい。

 翔はまじまじとポスターを見つめる。黒いクレヨンでぐりぐりと塗りたくったような目。白目はない。薄橙に塗った顔の上から直接描かれている。髪はないが、目の上にアーチ状の黒い眉毛はあった。顔の真ん中に引かれた一本の縦線は鼻だろうか。赤いクレヨンで描かれた半円の口。自分が子どもの頃に描いた絵もこのようなものだ。と懐かしくなって来月で十一歳になる翔は笑う。

 しかし、翔はその顔に少しの違和感を覚えた。自分がこんな口の笑顔を描くならば――目も笑わせるだろう。

 必ずしもそういうわけではないが、幼児が描く笑顔というものは、目がアーチ状になっているものが多いし、実際自分もそう描くだろうと翔は思っている。

 といっても、訝しむほどのものでもない。世界で一番有名な笑顔――黄色いスマイリーフェイスの目は楕円形だ。それに、そもそも誰かが自分を怖がらせる目的でやっていることなのだから、しらけないように、満面の笑みを避けたのだろう――翔はそう考えて、しかし違和感は残った。そうなのだとしても、幼児の描いた似顔絵すぎて怖くはない。

 自分を怖がらせるなら――翔は考える。

 肌を青く塗って死体みたいにするとか、どこかしらを赤いクレヨンで塗って血のようにするとか、不気味なもう一人の存在を描くとか、もうちょっと露骨に演出しても良いだろう。

 もちろん、幼児の描いた絵は人が見ればそれだけで不安になるようなものもあるし、塀に唐突に貼られていればぎょっとするだろうが――ただ、それだけのことで、それ以上のものはない。

 少なくとも、翔には幼児が描いた似顔絵以上のものを感じ取れない。そのはずだ。とっとと行ってしまえばいい。頭ではそう思っている。焦燥感が心に募る。学校に遅刻するから――そんな理由ではない感情が翔を急かしている。なのに、視線をポスターから外せない。

「……あっ」

 思わず、声が出た。既視感があった。具体的にどこで、ということはないが――この絵をどこかで見たことがある気がする。もちろん、自分を納得させようと思えばいくらでも可能性は思いつく。

 例えば――翔はデジャブという言葉を頭に思い浮かべた。

 見たこともないものに対して、何故か既視感を覚えるという脳の錯覚のような現象だ。

 この前のバス遠足で隣の席になった吉田よしだ吉彦よしひこは「俺はデジャブのプロだぜ……窓から見える景色の全てに見覚えがあるからさぁ!」と言って、翔を笑わせ、最後に「この学校見覚えがある……!」「そりゃ、俺らの小学校だもん」というオチを見事につけてみせた。

 あるいは、動物の顔の見分けがつかない現象だ。それに正式な名前があるのか翔にはわからないけれど、そういうものがあることは知っていた。動物園のサル山に行った時、猿は全員同じ顔をしていたのに飼育員さんは見事に猿を見分けてみせた。

 本当は猿の顔もそれぞれ特徴があったらしいけれど、人間というものは見慣れていないものを大雑把に同じ括りとして判断してしまうから、慣れなければ全て同じものとして判断してしまうらしいと飼育員さんは言っていた。それは猿以外の動物でも起こるし、信じられないことだが、人によってはロボットであるとか、特撮のヒーローなども同じものとして処理してしまうらしい。

 母の日であるとか、父の日であるとか、敬老の日であるとか、翔の家の近くのスーパーは何かにつけて子どもが描いたイラストを展示していた。それで似たような絵を見て、既視感を覚えたのかもしれない。

 いくらでも理由は思い浮かぶ――そのはずなのに、翔の胸はざわついていた。足元が覚束ないようなそんな奇妙な感覚があった。気がつけば、既視感は不安に変わっていた。仮にこの絵を見たことがあったからといって、何も無いはずなのに。

「ただのイタズラだって……わ、わかってんだからな!」

 周囲には誰もいない、それはわかっている。けれど、わざと声を出して、翔はその場を逃げ去るように駆け去った。

 全力で走る。その速度で置き去りにしたいくつかの壁に、なにか紙のようなものが貼られている。そこから目をそらす。もしかしたら――確かめる勇気はなかった。地面を見ながら、翔は走った。

 摂氏三十度。朝のうちから夏の陽射しに炙られて、アスファルトはすっかりと熱を帯びる。

 普段と何も変わらない通学路が揺らいだ気がした。陽炎が立ち上るかのように、視界の先に不安が立ち上ったように思えた。


 ◆


 翔の通う夢向ゆめむかい小学校の全校生徒数は六百十二人、その内五年生は百五人で、三十五人ずつが三クラスに分けられている。

 それが多いのか少ないのか、翔には判断できなかった。同じ市内の小学校でも、二十人で三クラスのところがあったり、クラスが二つしかないところがあるらしいという話を聞いて『じゃあ、うちの学校は多いんだろうな』と思ったり、あるいは昔は四クラスあったらしいという話を聞いて『じゃあ、すっかり少なくなったんだなぁ』と思ったり、ぼんやりと判断している。

 三十五人の小学五年生が一つのクラスに集まっているので、朝から賑やかだ。それぞれが仲の良いグループに分かれて、何事かを話しているが、それぞれの会話が入り乱れて、たとえ聖徳太子でも聞き分けることが出来ないだろうな、と翔は思っている。

 朝の会が始まる十分前、ようやく勢揃いした友人達を翔は自分の席に集めた。

 彼の席は教室の通路側の後ろの方にあった。窓からは自分のクラスに向かって歩く生徒であるとか、廊下の壁に寄って会話する生徒が見える。

「で、誰が貼ったんだよ?」

 自分の登校中に見たポスターについて軽く説明を終えて、そう締めた。ただ、そのポスターの似顔絵に見覚えがあることに関しては口を噤んだ。感情を抑えて冗談めかして言うように気を払ったが、内心の不安のために、翔自身も意識していないところで声は大きくなっていた。

「面白いけど……俺じゃないぜ?」

 吉彦が言った。がっしりした身体をしているが、別にスポーツクラブに所属しているわけではない。お笑い好きの少年で、小学生の間で普段遣いされないであろうひょうきん者を自称している。

「ドッキリならもっと笑えるような奴にする」

 だろうな、と翔は思った。元々、吉彦がやるようなことじゃない。

 かといって――翔は自分の周りに集まった吉彦以外の二人を見た。将来はプロゲーマーになると言ってはばからない岸陸斗きしりくとと、その陸斗にあらゆるジャンルのゲームで勝利する幹海人みきうみひと、そのどちらかがやったとも思えない。

「俺達以外の誰かがやったんじゃないか? 例えば……そうだな、丸喜とか」

 陸斗がちらりと後ろを見て言った。

 丸喜まるきそら――窓際の席で一人、本を読んでいる物静かな少年だ。オカルトが好きらしく、心霊現象であるとか怪奇現象であるとか都市伝説であるとか、そういうものに詳しく、今呼んでいる本もその類のように思える。

 痩せた色白の少年で、休み時間や放課後に外で遊んでいる姿は見たことがない。なんなら誰かと話している姿すらあまり見たことはなかったが、かといっていじめられているというわけでもない。翔自身もたまに話すことはある。しかし、放課後一緒に遊んだことはない。そういう微妙な関係性の相手だ。

「やりそうだろ、なんかよくわからねぇ本ばっかり読んでるし」 

「……そういう偏見は良くないよ。僕らは彼について詳しくない――」

 海人が呆れるように放った言葉を遮って陸斗が吐き捨てるように言った。

「だったら、本人に直接確かめてみるか?」

 言うが早いか、陸斗が空のもとに向かう。

「お前が犯人だろ!」

「な、な、な、何がぁ!?」

 あまりにも唐突な問いに、翔が気の毒に思うほどに空は動揺していた。そのおどおどとした様子を見て、やった陸斗自身も気の毒に思ったのか「悪い」と頭を下げた。

「丸喜はやってないっぽい、無罪だ」

「直情的すぎる。だから、陸斗は僕に勝てないんだ」

「なんだと!?」

 海人を睨みつける陸斗。

「だから何が!? なんで喧嘩を始めたの!?」

 その一方で何一つ事情がわからぬまま、動揺する空。そんな彼を呼び寄せて、翔は事情を説明した。

「それは……その、不気味な話だね……」

「君、こういうの詳しいだろ。なんか似たような事例を知らない?」

 海人が冷静に尋ねる。

「いや、誰かのイタズラであって丸喜の好きなタイプの話じゃないだろ?」

 その問いに吉彦が口を挟んだ。

「いや、イタズラだとしても着想元があるだろうし……それに、本物かもしれないだろ?」

 本物――普段、何気なく使うような言葉がおぞましい響きを持って、翔の鼓膜を揺らした。

「イタズラとかじゃなくて、本当に翔の存在しない妹が存在していて、その存在しない妹を探させようとしてるってことか?」

 言い終えて、陸斗は自分の言葉に首をひねった。

「いや、そもそも存在しないものを探そうだなんて思わなくないか?」

「ん、んっと…逆かもしれないよ」

 空が言った。

「このポスターに関しての心当たりはないけど、カリギュラ効果っていう何かを禁止すると逆にその何かをやりたくなってしまう……っていう効果があって、それを須藤くんに対して、狙ったものなのかも知れない」

「つまり、翔の存在しない妹を探させようってことか? いないのに?」

 空の言葉を吉彦が端的にまとめた。

 自身を包む明るい喧騒の中でもはっきりと聞こえるその言葉が、どうしようもなく翔には不気味に思えた。

 しばらくの沈黙の後、翔が口を開いた。

「冗談だよ、冗談!そんなさぁ……あったら面白いじゃんっていう、ヤツ!」

 自分の体とは思えないほどに唇も顎も重く感じた。そこだけが急に鉛に変わったように思えた。まとわりつくような不安感を、冗談として振り払わなければ、これ以上耐えきれそうになかった。

「だ、だよなぁ」

 喧騒がやけにうるさい。普段ならはっきりと区別できるはずの友人の声が、意味の通じない音に飲まれてやけに曖昧だった。

「チャイム一分前!」

 今日のクラス当番が大声で言った。今月の学級目標は『時間を守ろう』で、クラス当番が時間通りに皆が行動できるように、節目節目に皆を誘導しようということになって、クラス当番は声を張り上げていたのだった。

 当番の声に従うようにクラスメイトがそれぞれ自分の席に戻っていく。

 クラスの全員が着席する。

 刹那、始業のチャイムが鳴った。教室前方のドアが開く。

 翔は何も始まっていないことを祈った。


【つづく】

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