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とにかく仕事を頑張った。

同時に卒論もあって、家に引き篭もる時間が増えて、なんだか婚活を始める前に戻ったような気がした。


いやそれ以上に忙しさは増して、こだまにさえ行く回数が減った。


郵送で卒業証書が届き、あんなに卒論でバタついてたくせに自分は大学を卒業したのだとここで初めて気づいた時にはちょっと引いた。


だけど少し安心もした。


大学は…自分の将来を心配して通い始めた。

いつまで小説家を続けているかわからないし、在学中に仕事がなくなっている可能性だってあったのに。


卒業してもなんとかこの仕事を続けられている。


少しは自分を褒めたいと思った。



「じゃーん」


その日の夜、出版社までわざわざ卒業証書を持っていき、伊原さんに自慢した。


「おめでとうございます。てっきり留年かと」


「ポストの中1週間確認してなくて気づくの遅くなっちゃいました」


「やばいですよそれ」


「でも本当よかった〜これでとりあえず大卒って胸を張って言える」


「よかったですね」


珍しく伊原さんが柔らかい表情で笑ってくれた。


季節は少しずつ春の兆しが見えてきて、新作の執筆も卒論と並行していたとは言えかなり順調だ。


この間行った健康診断ではかなり数値も改善されていて、一時期減っていた体重も戻った。

睡眠薬がなくても眠れる日が増えたし、なんだか普通の人として久しぶり生活できている感が嬉しかった。


少し前までは、誰かと1日出かけることさえ臆病になっていた。


今なら…自分以外の人のことを考えられるかもしれないなんて無責任なことを思ったりもする。



だけど同時に、やっと気づきあげた平穏を壊したくない気もしてる。


なるべく欲張らない。

今目の前にあるものを大切にしたい。


そう思うと一歩踏み出すのが怖かった。



「お祝いに飲みにでもいきますか?遠藤さんとか誘って。今日ちょうど出社してるんで」


「え、いいんですか」


「たまにはいいんじゃないですか?」


遠藤さんは伊原さんの前の担当の人で、今でも会えばたまに新作の感想をくれたりする。

敏腕の編集さんで忙しくてなかなか会えないけど今日はいるようだ。


伊原さんは遠藤さんの他に私の作品の校閲をよく担当してくれている相澤さんにも声をかけてくれて4人で飲みに行くことになった。


こだまではない居酒屋に行くのはいつだか皐月さんと出かけた時以来でなんだか緊張した。

だけど体の調子はいい状態だし、少しずつ外食に慣らしていく意味ではいいきっかけになる気がした。


「先生映画化と大学卒業、本当おめでとうございます。私も鼻が高いです。あ、敬語やめてもいいかな?」


遠藤さんは居酒屋に入って1時間でもうすでに酔っ払っているようで新しいお酒を頼むたびに同じことを言いながら私に乾杯をしてくる。


「ど、どうぞ。昔みたいに話してください」


「遠藤さん飲み過ぎです、先生困ってますよ」


「いやでも高校生の時から見ているこっちとしては感慨深いというか…なんか泣けるよね本当」


伊原さんが制してくれるけど、相澤さんも遠藤さんと同じくらいのペースで飲んでいて染み染みと昔の思い出話をし始めた。


相澤さんは30代後半でもう校閲に関してもベテランだけれど常に作家へのリスペクトが強い人で、物腰が柔らかく話もしやすい。

なかなか難しいことだけど新作を出すたびに相澤さんに校閲をお願いしたいと思うくらい本当にお世話になっている人だった。


「大学も頑なに嫌がっていたからどうなるかと思ったけど、卒業できて本当よかった〜」


「つい最近まで休業考えてましたけどね」


遠藤さんの言葉に水を刺すように休業の話を掘り返された。


私は若干気まずかったけど、遠藤さんと相澤さんはそれを知っていたようでああと思い出したかのように話を続ける。


「私は伊原からその話聞いたけどそれ結構噂になってたんだよね。私の担当作家でも知ってる人多くて、なんで?」


「先生が悪いんですよ。普通に他の編集いるオフィスで休業したいって言うから。噂にもなりますよ」


「あの時はなんか…とにかく言わなきゃっていう気持ちでいっぱいで場所とか考えられなくて」


「そんなに休業したかったの?」


「伊原さんに休業イコール引退だって言われた時…一瞬辞めることも頭によぎりましたけど…」



その言葉に空気が強張る。


「…え?」


まさかそんな反応をされると思わなくて私も枝豆を持ちながら固まった。



「先生…伊原が厳しくて辞めたくなる気持ちはわかるよ」


「いや違うでしょ」


「でもダメだよ、そんなこと考えちゃ絶対ダメ」


「………」


「色んな重圧があるのもわかる。もう書きたくない日だってあると思う。だけど私は、先生に才能があるのもわかるから。それは相澤さんも伊原もわかってる」


「………」


「負けないでほしい。辞めないでほしい」


こんな風に遠藤さんに真剣に話をされたのは、小説家になると決心した時以来かもしれない。

その圧のある視線から目が逸らせない。



だけど横から入ってきた言葉は、


「素直に言ったらどうですか?柊葉月に小説家を今辞められたら自分たちの生活にも関わってくるって」




…その場の空気をさらに強張らせ、同時に冷たくもした。


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