正体(1)
視界がマナーモードのように小刻みに震える。
平静を装おうと誠人はなんとか笑みを浮かべた。しかし、滴り落ちる汗がそれらの努力を台無しにしていた。
「えっ……とー……その、きょ、協力って……。一体何を……?」
誤解しないでほしい。まだ協力するとは言っていない。あくまで、「何を協力するのか」聞いているだけだ。
誠人の腹の底を探るような空気を読む気もない莉央は、「うーん、口で言っても良いんだけど……」と言いながら、自身のつるりとした顎を撫でた。
「そうだな。試しに、『見て』みてよ、俺のこと。どこまで見えるか知りたいな」
「い、いや……見るって……」
「ああ。見たら吐くんだっけ?」
そう言うと、莉央は自身のリュックからエチケット袋を取り出した。
「ちゃんと準備してあるから大丈夫。はい、どうぞ。思う存分、吐いていいよ」
残酷にも差し出されたエチケット袋に目を落とし、誠人は自分が、梯子のない、深い井戸の底にいる気になった。
莉央の口調は終始穏やかで柔らかかった。
柔らかいから誤魔化されがちだが、莉央は一貫して、自分の要求を押し通してきていた。誠人の事情や考えなどお構い無しに――もっと言えば、「誠人が莉央の事情を考慮して動くのは当然だが、その逆は、考えたこともないし考える気もない」と、全身で言っているような男だった。平たく言えば恐るべきわがままだ。しかもそれが、自分なら許されるとばかりに、あふれんばかりの自信でもって押し通してくるので、それを受けた相手は「莉央が正しく自分が間違っている」と錯覚しそうになるほどだった。
そんな男を前に、誠人は一生懸命、自我を保ち、損得勘定を行った。
莉央の要求通り、彼の秘密を読んでしまえば、誠人の能力を肯定することになる。
莉央が何をどのように言おうと、能力さえ使わなければ、誠人の能力を証明できない――。
(そうなんだけど……)
誠人はちらりと莉央を見やった。
写真で見たなら、素晴らしい微笑だ。雑誌の表紙を飾っていてもおかしくない。
しかし瞳は氷のようだ。温かい色味のはずなのに、彼の瞳を覗き込むと、何も笑っていない事実に気づく。まるで鏡の中を覗き込んでしまったような、ぞっとした強さがそこにあった。
逃がしてくれる気がしない。
誠人が能力をどう誤魔化そうとしても、莉央はきっと無視するだろう。「誠人には能力がある」と確信しており、莉央はその、自らの判断を、誠人ごときの言葉で覆す気などさらさらなかった。この世で信じているのは自分自身だけと言わんばかりに、盲目なまでに、莉央は自分の判断を信じていた。
エチケット袋をもう一度見る。
断ることが難しいなら――もう、読むしかない。
そう思うと、逆にこれは、チャンスなのかも知れないと思い直した。
莉央の秘密がどんなものであれば、誠人に見せる気になっていたとしても、世間一般に隠したい気持に変わりはないはずだ。現に彼の影は、変わらず六十パーセントの濃さでそこにある。人に知られたくない秘密を誠人だけが知れるなら、それはむしろ、誠人にとって、莉央を脅すカードになるかもしれなかった。莉央が誠人に能力の行使を強要しても、彼の秘密を盾にして、誠人はそれを拒否できるかもしれない。
(もしやばい秘密だったら……最悪、母さんだけ逃がすっきゃない)
秘密を知ったことで、すぐ殺される――なんてことは、彼の影の濃さからいってないはずだが――。誠人が見える影の濃度は、莉央の言う通り、他人から見た罪や秘密の重さで変わるわけではない。影の持ち主である本人が、その秘密をどれだけ人に知られたくないかで濃度が変わる。つまり個人の主観がたぶんに含まれるものなのだ。軽度な犯罪や行為であっても、持ち主が「誰にも知られたくない」と思えば濃度が濃くなるし、逆に殺人を犯した者でも、それを隠す気がなければ濃度はそれほど濃くならない。
莉央が自身の隠し事を「たいしたことない」と思っている狂気の持ち主ならば、影の濃度も完全には信用できない。
(やるしかない。むしろ、やる以外、ない)
覚悟を決めた誠人は、莉央の差し出したエチケット袋を受け取った。
幸い、扉に近いのは誠人の方だ。影を読んだ後、とにかく扉を開け、母に逃げろと叫ぶぐらいは出来るだろう。その後、誠人は莉央の両足に掴みかかる。あっという間に殺されるかもしれないが、それでも少しは時間稼ぎができるはず――問題は、逃げろと叫んで、母が素直に逃げるかだけだ。
(もうそれは、信じるっきゃない)
正直、我が母親のことながら全く信用ならなかったが、ここまできたら出たとこ勝負だ。
エチケット袋をしっかりと握りしめ、誠人は莉央の顔を見た。
腹立たしいほど変わらない微笑がそこにある。
(望み通り、読んでやる)
もう二度としないと決めたばかりなのに……。気弱な誠人のボヤキを脳で聞きつつ、誠人は息を吸って、莉央の影を凝視した。
深い影が、ゆらゆらと揺れる。
いつも通りだ。「読むぞ」と決めると、視界がどんどん莉央に近付く。影の粒子の一つ一つが、泡のように飛び込んでくる。
いつもなら、ここで扉のようなものにぶつかる。無理やり開けないと、入ることを許さない苦痛の扉だ。しかし今日はどこまで潜っても一切の反発がない。莉央が
流れる川のように、莉央の秘密が、何本もの白い束になって誠人の中を流れていく。
誠人は息を荒げた。
代償による苦痛からでない。莉央の秘密の情報が、あまりにも多いからだ。
一つ二つの秘密でない。
何重もの出来事と感情が、押し寄せては打ち付ける。それだけで、誠人の脳は、処理に追われて悲鳴をあげた。それと同時に、莉央の苛烈な感情が、激しい荒波となって誠人を突き刺し、揺さぶり、粉微塵に砕けさせた。
誠人の目から涙が流れた。
誠人の感情で流している涙ではない。
莉央が――。
あの時の、莉央の感情に、引きずられて流れている涙だった。
「……どこまで見た?」
静かに、莉央が誠人に問いかける。
長い足を組み、莉央はベッドに腰掛けたまま、誠人のことを見下ろしていた。
短く息を繰り返した誠人は、
そうして、最も気になった、彼の未来について問うことにした。
「本気で……」
感情によって痛んだ自身の胸元を握りしめ、誠人はまっすぐ、莉央を見返した。
「本気で、父親を殺す気なのか……?」
莉央は満足そうに、口元をあやしく歪めた。
***
「お誕生日おめでとう〜物集くん!!」
言葉と同時に、人に向けてはいけないはずのクラッカーが、至近距離で誠人目掛けて炸裂する。
キーン。脳まで突き抜ける耳鳴り。
予想通り、色とりどりの紙吹雪と紙テープが、誠人の顔面に降り注いだ。
「……あざす」
思った以上に事務的な声となってしまった。
紙テープを雑に払いのけながら、誠人は、目の前にいる、クラッカー発射犯である徳田に向かって礼を言った。
まだクラッカーを握りしめている徳田の目はうるんでいた。
喜びのあまり、口元は我慢できない笑みに溢れている。
「いやー待ってたよ! 本当に待ってた! おめでとう十八歳!! ありがとう遅番デビュー!!」
歓喜というより狂喜に近い。
おめでとうおめでとうと肩を叩かれる誠人は、虚空を見つめて半眼になった。それを見たバイト仲間が「チベスナ! リアルチベスナ顔だ!!」と言いながら誠人と徳田を連写する。肖像権の侵害じゃなかろうか、これは。
徳田の言う通り、今日は誠人の誕生日だった。そして遅番デビューの日でもあった。
出勤と同時にバックヤードで徳田と幾人かの同僚に囲まれた誠人は、冒頭の通り、クラッカー射撃事件の被害者となった。狂喜乱舞する徳田は自ら汚した紙吹雪を箒と塵取りで掃きながら、「待ちに待った遅番だね! これに慣れたら夜勤だね! 大丈夫! 夜勤もすぐだよ!」と、徳田だけが喜べるようなことを延々と言い続けている。聞いているだけで疲れてきた誠人は、そのほとんどを無視し、やっと制服に着替えてタイムカードを押した。
「えーと、今日の申し送りだけど……。いつも通り、要注意のお客さんが三人いるってことと……明日からくじが始まるから、問い合わせあるかもしれないけど、前売りしないように気をつけてってことぐらいかな」
今日は徳田が申し送りをするらしい。
バックヤードで他の遅番と並び、早番の時のように、始業時の注意点を聞く。
「要注意のお客さんだけど、物集くん以外はみんな知ってるね。一人は、十九時頃に大体くる山野さん。よく分かんないもので支払おうとするから、ICカード持ってないか確認して。日によっては怒鳴り散らすけど、この人、後見人がついてるから、怒り出したら後見人に電話ね。番号はレジの下にあるよ。もう一人は髪の毛ボサボサの女の人。この人、万引きの常習犯だから、来店したら積極的に声かけて。顔写真確認しといてね。最後の一人は僕もまだ会ったことないけど、なんか色んな人に、なんとかさんを知ってるかって聞いて回る人ね。春になると色んな人が出るよね……いやもう梅雨だけど。トレンチコート着てて、見た目はすごい変な人だけど、聞くだけ聞いたら離れていくらしくって、害はないそうだから様子見て。お客さんに絡みだしてトラブルになりそうだったら、遠慮なく、警察呼んで。以上」
簡潔な申し送りを終え、それぞれの業務に入る。
要注意客のうちの一人は、昼にも来る客なので、誠人も知っていた。
八十を超える高齢者である山野は、昼頃にも弁当と酒を買いに来る。ケアマネとかいう女性と後見人が一度挨拶に来店しており、オーナーに繋いだのは誠人だった。
トレンチコートの男はよく分からないが、誠人が注意すべきは万引き犯の女性だろう。顔もなんとなくは覚えたが、影にも注意してやるか、と誠人は思った。
まずは遅番の業務の流れを習わないといけない。
レジ操作など、おおむねの業務は同じでも、雑誌を出すタイミングなど、遅番ならではの流れと業務も一定量ある。
誠人は先輩のバイトに連れられ、バックヤードから店頭に出ようとした。その背中に向かい、思い出したかのように徳田が声をかけた。
「あっ、みんな、冷蔵庫にケーキあるから、休憩の時にでも食べてね。物集くんは店の食べ物、どれか一つ、僕のおごり! お誕生日おめでとうね」
そういうことをサラッとするから、なんだか妙に憎めないのだ。
客に「とくちゃん」と呼ばれる所以を見た気がして、誠人は少し、こそばゆい気持ちになった。
(いや、ちげえわ)
即座に自身を戒める。
振り向いた誠人の目には、帰り支度をしながらも、うきうきと職員名簿を眺めては、夜勤の頭数を数えている徳田の姿が映っていた。
誠人の人生経験が少ないために、うっかりほだされそうになってしまったが、騙されてはいけなかった。徳田のこれは、純粋な親切ではなく、下心満載の処世術だ。うまいこと人をたぶらかし、遠回しに自分の都合の良い方に転がしている古狸。大人って本当にずる賢い。
世の闇を垣間見た誠人は、荒んだ気持ちを抱いたまま、慣れない時間に慣れたレジへと立ったのだった。
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