異世界で君を迎える日まで

音無 野空

[第0章] あなたの声は聞こえない

 寒(さむ)くもなく、 暑(あつ)くもなく、 穏(おだ)やかな朝(あさ)でも、 騒(さわ)がしい午後(ごご)でもなかった。


 ただ—— 在(あ)った。


 数(かず)ある普通(ふつう)の日(ひ)の中(なか)で、 きっとこの日(ひ)は、一番(いちばん)“普通(ふつう)じゃない”日(ひ)だった。


 いくつもの思考(しこう)が頭(あたま)をよぎる。 音(おと)の消(き)えたあの日(ひ)、 静(しず)かに響(ひび)いた記憶(きおく)の断片(だんぺん)たち。


 ——泣(な)き声(ごえ)。 ……僕(ぼく)の泣(な)き声(ごえ)か?


 でも、僕(ぼく)は確(たし)かに、彼女(かのじょ)の隣(となり)にいて——


 その瞬間(しゅんかん)、視界(しかい)がぼやけ、 頭(あたま)の中(なか)にあった音(おと)が、目(ま)の前(まえ)に現(あらわ)れた。


 正直(しょうじき)、変(へん)な感(かん)じだ。 知(し)らない部屋(へや)。 けれど、どこか…あたたかくて、心地(ここち)よい。


 ——僕(ぼく)は、生(う)まれ変(か)わった。


 誰(だれ)が想像(そうぞう)しただろうか。 あの一瞬(いっしゅん)で、積(つ)み上(あ)げてきたものすべてが、 無情(むじょう)に奪(うば)われたなんて。


 反抗(はんこう)する間(ま)もなく—— 声(こえ)が聞(き)こえた。


「……ら」


 息(いき)をのみ、再(ふたた)び耳(みみ)に届(とど)く。


「——ノゾラ。」


 その瞬間(しゅんかん)、分(わ)かった。 この名前(なまえ)は、僕(ぼく)のものだと。


 不運(ふうん)な機会(きかい)の果(は)てに与(あた)えられた名(な)。 けれど、その響(ひび)きは優(やさ)しく、儚(はかな)く、美(うつく)しかった。


 問い(と)かける暇(ひま)もなく、ぬくもりが肌(はだ)に触(ふ)れ、 澄(す)んだ視線(しせん)が僕(ぼく)を包(つつ)んだ。


 彼女(かのじょ)は、美(うつく)しかった。


 椿(つばき)のように繊細(せんさい)な顔立(かおだ)ち。 半分(はんぶん)閉(と)じられた翠(みどり)の瞳(ひとみ)。 雪(ゆき)のように白(しろ)い肌(はだ)に、 かすかに色(いろ)づいた唇(くちびる)。


 短(みじか)く整(ととの)えられた栗色(くりいろ)の髪(かみ)が、 病室(びょうしつ)のパネルライトに照(て)らされて、やわらかく輝(かがや)いていた。


 彼女(かのじょ)を見(み)つめていると、 もう一つ(ひとつ)の声(こえ)が近(ちか)づいてきた。


 男性(だんせい)の声(こえ)—— 落(お)ち着(つ)いていて、けれど、確(たし)かに響(ひび)く。


「奥(おく)さん、少(すこ)し赤(あか)ちゃんをお預(あず)かりして、 沐浴(もくよく)の準備(じゅんび)をさせていただきます。」


 それは、医者(いしゃ)だった。


 空(そら)のような青(あお)の制服(せいふく)。 静(しず)かな海(うみ)のような態度(たいど)。


 父(ちち)の姿(すがた)はそこになく、 母(はは)と医者(いしゃ)との間(あいだ)で、いくつかの会話(かいわ)が交(か)わされた。


 医者(いしゃ)は真(ま)っ直(す)ぐ。 母(はは)は……壊(こわ)れそうなほど、儚(はかな)かった。


 その光景(こうけい)—— きっと、心(こころ)の奥(おく)に苦(にが)く残(のこ)るだろう。


 タオルで包(つつ)まれ、 小(ちい)さな布(ぬの)で赤(あか)い肌(はだ)を覆(おお)われ、


 眠気(ねむけ)に包(つつ)まれながら——


 僕(ぼく)は、ノゾラとして、 新(あたら)しい肉体(にくたい)の囚人(しゅうじん)となり、 再(ふたた)び始(はじ)まる物語(ものがたり)に涙(なみだ)をこぼした。


「ねえ、起(お)きて…朝(あさ)ごはんの時間(じかん)よ。 月子(つきこ)はもう学校(がっこう)に行(い)ったし、あなたも仕事(しごと)に行(い)かないと。」


「おはよう、愛(いと)しい人(ひと)。今日(きょう)は何(なに)があるの?」




「さあ、自分(じぶん)で見(み)て。娘(むすめ)が作(つく)ってくれたのよ。」


 僕(ぼく)は立(た)ち上(あ)がる。


 その瞬間(しゅんかん)—— 光景(こうけい)が霧(きり)のようにかすみ始(はじ)める。


 そして再(ふたた)び——


 母(はは)の胸元(むなもと)で、


 小(ちい)さな身体(からだ)の中(なか)に閉(と)じ込められていた。


「ノゾラ、もうすぐ一緒(いっしょ)におうちに帰(かえ)れるからね。 あなた、ほんとに手(て)がかかったけど… ママはちょっとだけ手続(てつづ)きしないといけないの。」


 二人(ふたり)きり? 三人(さんにん)じゃなかったっけ?


 まあ……心配(しんぱい)しなくていいのかもしれない。 パパは、たぶん、仕事(しごと)か出張中(しゅっちょうちゅう)なんだろう。


 ママは、ゆっくりと年配(ねんぱい)の看護師(かんごし)に車椅子(くるまいす)で押(お)されていた。


 褐色(かっしょく)の肌(はだ)に白(しろ)く束(たば)ねられた髪(かみ)、 しっかりとした手(て)。 そして、少(すこ)し疲(つか)れたような目(め)だった。


 そして、また——僕たちの物語が、始まろうとしていた。

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