第3話
「君も大分変わったねぇ」
咲の顔が、若干火照っている。それは単に酒を呑み、気分が良くなっているからだろうが、大鰭亜門にとってはあまり良いとは思えなかった。酒以外で、この赤い顔を見るのは既に二回目である。過去の二回によって、彼女の一面を見逃す自分を恥じた。しかし、吐いてそのまま雰囲気を台無しにしてしまうことの方を、大鰭は何よりも畏れていた。それを見て、また彼女が『あの場所』で起きたことを思い出すのも苦だ。しかし……どうしても。
あの日の後悔や所業を漏らしてしまうことはよくある。
「あんだい鮫古くん。顔色が悪いじゃないの」
「……お前ももう鮫古だろう。そして、また隠れて度が強いのを呑んだろう。たまには控えるんだ」
「お堅いなぁ君は。いつまで経っても」──あん時のまんまだ。『にかり』とこちらを向いて笑う咲の顔は、まさに『魔性』の体現だ。爽太……息子が好くのも、こんな女性なのだろうか……。過去を簡単に捨てて、笑い話に昇華できるほど、大鰭の精神は屈強では無かった。そんな彼を支えていたのは、愛すべき、十つの頃に永劫の幸福を誓った彼女だった。
大鰭の脳内では、戦場の上空でいつまでも、桜の樹が華やいでいた。戦場の業火を打ち消してくれるのは、いつだって、舞い散った花弁だった。が、その花弁も、落つるとまた生え替わる。無尽の包容力は、見る者の心を癒やし、咲かせる。
彼は、詩を詠むことを、我が秘められた趣味としているが、そのどれもに『咲』という文字が入っている。この瞬間も大鰭は彼女の隣で詩を綴っている。しかし愛妻家は、それを本人の前で告げることは滅多にしない。『お前は世界で最も美しい』、と。
「な~にをぼうっとしとるかね。折角君の大好きな咲ちゃんが隣にいんのによ」
「あぁ」
大鰭が漏らす。
「そろそろ片付けようかって考えてたんだ」
阿片が酔いつぶれ、床では毛布がふわっと掛けられた爽太がすやすや眠る。机上の酒を飲もうとしたが、ボトルを傾けてもそこからは何も出てこなかった。多分、阿片が大方飲み干してしまったのだろう。仕事では、かなりしっかりと物事を管理するが、彼はほとんどそんな姿勢を見せない。自分の身体に無頓着なのだ。もしくは、自分の体調を気にしている余裕があるのなら、自分の意識を極限まで低くしてしまえとヤケクソになっているのかもしれない。
しっかり者もこうやって隙を見せていると、寝首を掻かれるぞ、と思った。しかしながら、大鰭自身もこの家では随分と肩の力を抜いているので、人の事は云えたものではない。
そんなしっかり者の残した荒れた後を処理するのは、いつも鮫古夫妻だ。二人は文句の一つも云わないで片付けているが、実は片付けの途中に阿片の側を通っては軽く頭を引っぱたいているのだった。
「……まーた寝てら。寝るんなら、自分の組で寝りゃいいのに」
「ここほど安全な場所は裏社会にもほとんど無い。それに、コイツの組は継承してから場所はまんま、変わっていない」
「てことは、肥溜めの人等が気になって眠れなくなってるんだ」
「だから、あそこのカミさんから推薦を貰って、東京の方に移してもらったんだろう」
大鰭亜門と咲の間に授かった息子、爽太は、毎日東京の方に足を運んで、小学校に通っている。単純に裏社会では、まともな教育を得ることが出来ず、『潤滑油』連中が個人運営している学舎のみが、れっきとした教育施設として様相を為している。……が、その状況の好調とは云えず、不良と化した生徒が肥溜めで問題を起こして命を落とす事の多々ある。更に、その魔の巣窟からも比較的近い事から、その現状を鑑みて、子を為した二人は、育ての親である薬部
「ああ、こんな日々がいつまでも続けばいいだろうに」
「お前が居ればどこだって……くそったれの『あの場所』だって、楽園みたいに思えたんだ」語尾を濁したからか、その吐露は彼女の耳には届かなかったようだ。
「でも……そんな日々もあと五〇年そこらで終わる。それが残酷で、怖くて……強い酒を呑むんだ」
……。
「酒を呑む口実に人生を使うんじゃありませんよっと」大鰭は、咲の頭をコツンと叩いた」
「いてて。バレたか」
それはそうとして。咲が話を無理やり方向転換させようとするが、本来話そうとしていたことをそのまま問いかけてきたので、大鰭も返答がやりやすかった。
「限界鳥くんだっけか。あの人は取ってこれたの?」
「んまぁ、ボロボロで今は使い物にならないけど、二ヶ月も安静にさせてればそこそこは動かせるだろ」
あの後──オーバーレイは気を失って、そのまま大鰭におぶられて帰った。追手が来るかと警戒していたが、実際はそんなことは無く、平和な帰り道であったことを疑問に思った。要人が集う場所手前だから、多少のガードマンとの衝突はあるかとも考えたが、徒労だっただろうか?
山田組からの報復を警戒して、とりあえずレイは最寄りの支部のシェルターで怪我の治療に専念してもらうことにした。
「──良い買い物をした」
「それはどうかな大鰭くん」
「…………お前はいつも突然現れるな、シジマ」
君が呼ばないからじゃないか、と云いながら、ぐっすりと眠る爽太の頭をワシワシと撫でるところに母性を感じる。ヤツは性を上司にも云ったことは無いから、各々で判断するしかない。大鰭は女、爽太と咲は男、他の者はそもそも彼女の存在を知らないがため、ほとんど訊く機会は無いが、阿片や夜背は無性と判断しているようだった。
そして何よりも彼女の特性は、『不老不死』である。不老かどうかは知らないが、付き合いもそこそこに様相が全く変わらないからそう思っているだけだが、不死の要素は実際に目にする機会が多い。
敵組織に首を刎ねられた時、人質として囚われ、銃弾が頭を貫通した時、通り魔に腹を引き裂かれた時。いずれの状況に陥っても、シジマは顔色の一つだけを変えて痛み、死に、再起する。最優先で潰すべき策士たるシジマは、絶対に潰れないし、潰れたとしても再び膨らんで、次の瞬間には思考を開始する。
──末恐ろしいな。こんなのが敵に居たら、たまったモンじゃねぇ。
「君は……数時間前、山田組お抱えの情報屋を不正に雇用し、裏切り敢行を幇助した。これで裏社会での信用は下がる。ハッキリ云って計画として下の下で、これからの組の方向性を揺るがす事になる」
「はは、大丈夫だ。俺と、お前。別の組には阿片と夜背。鉄壁の構えだろ、この字面を見て驚き、慄かないヤツなんて誰が居る?」
「山田華之助だよ」
その名前は聞きたくはないとばかりに耳を抑えると、シジマは呆れた。
「……。やれやれ、困った組長さんだ。まあいい。ただの理事長の戯言だと思って聞き逃してくれ。そして今の脅しは、半分は正解で不正解なんだよ。
私が証拠隠滅を数時間前に終わらせておいた。何一つとして、鮫古組が限界鳥に関わったという証拠は残らない。憶測だが三年は保つね」
「安心したよ。お前は良く分からんが、優秀だな。これからも頼りにしている」
動揺を隠しきれない様子で感謝すると、得るべきものを得たと云わんばかりシジマは去っていこうとする。
「あ、そうだシジマ」
「何だい?」
「明日からしばらく肥溜めの方に見回りに行ってくる。咲と爽太を頼めないか?」
「いいよ。丁度私も手が空いた。私のような非力があんな危険なところに手を出す訳にも行くまい。引き受けたよ」
今度こそ行けとサインを送ると、バチコンと下手なウィンクをして去っていった。
「全く……私、話に全然ついていけないんデスケドモ」
そこには更に顔を赤くした咲が居て、振り向いた時には欠伸をふわりと浮かべていた。
「いや、明日俺が遠出するからお前たちを頼んだんだ。それよりも……お前は寝ろ。顔が酷い。片付けとコイツは何とかするから、寝室に迎え」
「はぁい。分かりましたよ鮫古くん。おやすみ」
ああ。おやすみ。
ああ。
嗚呼──こんな日が永遠に続けば良いのにな……。
遠い記憶を思い出す。
それは二十年くらい前。爽太が生まれる前はおろか、大鰭亜門が裏社会に居ない時代のことだった。
大鰭少年は、決して素晴らしい友人になり得るような人物では無かった。鮫古大鰭亜門、十才。本名不詳、出身〇〇村。偽名の由来、真偽不明。本人曰く、「由緒正しき武士の血族の技から取った」との事だが、虚言癖も鑑みると、虚栄心があるんだという事になった。
一人で静かに古本に向かい、学舎での日程を時間通りに、一定以上の成果を残していった。勉強はそこそこであったが、知識量や運動能力は、同年代ばかりか、大人さえも負かすことがあった。
──彼女が来るまでは、村の持久走は一番の成績だった。
「今日はぁ──転校かな? 転入かな? いやまあ、初めての転校生が来ました。和田咲さんと云うのですが──鮫古のところに座ってる子だな。きっとお前らのことだから、喋ってたりはしてるだろうし、前には出なくて大丈夫かぁ!」
妙に明るい男の教師は、誰の声も挟まる前に、一つビッグニュースに区切りを付けた。本当は誰も、彼女に声を掛けてはいなかったが、誰も教師の憶測に訂正をすることは無かった。慌てふためく気持ちは理解できるが、教師はやけに安心したような顔をしていた。
それにしても、和田咲か──語呂の悪い。名前くらい、隠せなかったのだろうか? 識者故の傲慢な思考が外に出ていたのか、隣の席に座っていた当人に酷くきつい目をしている。和田はそれを見ても、表情一つ変えようとはしなかった。ただそこに佇んでいて、『笑顔』、の雰囲気を象っていた。
その後、春から夏にかけ──丁度、村の慣例について話題になっている頃まで、咲は誰とも進んで関わろうとはしなかった。教師がすれ違う時、無意味に彼女に感謝をする事があったが、さほど疑問には思わなかった。というのもこの和田というのは、運動神経がこれまた良く、大鰭と並ぶほどの持久力や速さを見せつけて、学舎の名物に新風を吹かせたのだった。
「どうせ鮫古が勝つ」という状況が一変。「鮫古と、和田。どちらが勝つのか?」と、主に男児からの注目の的となっていた。
思わずして人気を得た両者は、少し退屈そうにして、跋扈する言葉の中を駆け抜けた。
今日も体育の時間が終わると、教室の中で、どわっと二人に傾れ込む。咲はいつも、適当にそれらの言葉にポジティブに返信して見せたが、今回は、ごめんと断って大鰭の方へと向かったのだ。
こんなことは今まで無く、多少、ほんの少しだけ、少年は驚いた。
「ねぇ鮫古くん。今時間あるかな?」
「ん」
大鰭の「ん」は了解、「んん」は却下を表すもので、前者を云うと、やはり男児はそれを茶化した。人は幾つになっても恋路を眺めるのが好きなようだと思うと(ああ、これは傲慢か)と、思い直す。
学舎裏に向かうと、意外にも馴れ馴れしく接してくるのに強く驚いた。
「つまらないね」
「ああ、つまらない。足が速いからって、何になる」
肯定してもらえた事が嬉しかったのか、ついに饒舌になる。
「男子は速いね。親譲りでたまたま足が速いだけなんだろうけど、きっと、お父さんかお母さんが違ったら、他の子みたいに悔しがったのかなあ」
「……そうだな。でも、こんなつまらない事で惨めならないだけ良いと思おうぜ」
咲は笑った。でもそれは……泣き笑いのように見えてしまった。それが錯覚ではない事を確認すると、すぐさま涙を拭ってやる。
「どうしたんだよ」
「何でもない……」
それから数週間は、咲はほとんどの時間を大鰭と過ごした。会話を交わす事はあまり無かったが、お互いに一緒に居ると、居心地が良かった。……普通の小学生、普通の友人、対等。それだけで、俺は幸せだったのかもしれないな。
贄奉りが行われる。贄奉りというのは、この村ならではの風習であり、年に一度の夏の日に体力のある男子一人を、この山に棲む凶暴な大蛇に仕えさせるという内容だ。村長の祖父の代にこの村は、大蛇に一度滅ぼされたらしく、厄災を繰り返さない事を誓って、代々受け継いできた伝統なのだろう。規模の大きい村で幸いしたが、戦争による出兵の影響で、健康と呼べる男はついに、男子学生のみとなった。村長は、学生から一人を捧げる事を正式に公表したが、それでも今年は誰もそれを咎めなかった。「どうせ鮫古がやられるのだろう」と、頭のどこかでみんな思っていたのだ。その当の本人もそれを自覚していて、お得意の知識量で辞世の句を何と無く詠んでみたりしてた。
しかし、直前になっても、報せが家に来なかった。今日の夜、それは決行される。
なんで?
焦る。自分だと思っていた。自分さえ死ねば安泰だと。そう思っていた。
「鮫古くん」
玄関で待機していた大鰭の前に、聞き慣れた女子の声が投げかけられる。
咲だ。
「ちょっと、いいかな」
「…………母さん。ちょっと出るよ」
母からの返しは無く、秒針の音だけが反響するばかりだった。
母は……数年前からああなった。
贄奉りで母が失う者は、何も大鰭だけでは無い。父も丁度、昔贄奉りでこの村を去った。いや……追放されたに近い。父は行きたくないと抗ったが、村中の老人に取り押さえられて、檻の中に転がされて、山の奥へと消えていったのだった。
その姿を最後に、父は一度として現れる事は無かった。母は精神を崩壊させ、大鰭はそれを哀れに思った隣人たちから支援を受けて生活していた。
「贄奉りに出されるの、今日」
「……はっ?」
なんで?
えっ なっ なんで?
「じょ、冗談だよな?」
「こんな一緒に居て、私がつまんない冗談云う女の子に思う?」
彼女はいつだってまっすぐだ。
「私はね、お父さんに売られたの。裏社会ってところから来て、命からがら逃げてきたら、今度はここの村の人たちに襲われて。それでお父さんは殺される前に云ったの」
──この子は運動が出来る。足が速い。力もそれなりに、ある。
「これを好きに使っていいから、自分だけは助けてくれって。……それで、鮫古くんと競わせたら互角。そこで、贄奉りの生贄にされるのが決まった」
「だ、だって」
男子だろ!?
「それは今までの風習なんだよ。みんなそれを受け入れてる。男だけだなんて、前時代的だって」
──そんな、そんなことが。
許されるのか。
「……私、もう行くね。じゃ、君はちゃんと、幸せに生きるんだよ」
────────。
「は」
後ろでは、業火が燃えている。四肢や顔には、乾いた血が付着している。俺は誰かにおぶられている。
「あ」
おぶっているのは……咲だ。妙に顔が白い。白粉か。着ているのは……晴れ着か。似合っている。俺は咲に贄奉りに出ると宣告されて、別れて、夜になって、祭囃子が聞こえてきて、刃物の擦れる音、豚の死ぬ音。いや、骨の斬れる音。花の散る光景。家屋が燃える。大きな蛇。大蛇。逃げよう。ここから、逃げ──。
どうなった?
「鮫古くん、起きたね」
「んん」
「嘘だぁ」
うんしょ、と大鰭を降ろすと、ずしりと咲はその場に倒れ込んだ。
「あれ、鮫古くんがやったんだよ、覚えてない?」
「いーや…………覚えてないな」
「カッコよかったんだよ? 怖かったけどね? 「俺と一緒に逃げよう! こんなところから!」って──。いやぁ、その後に気を失うから、どうしたのかと」
さーっと顔色が青くなってから、かーっと顔が赤くなる。そ、そんなキザな言葉を云ったのか。俺は。──キザの定義が分からん。
「それで?」
咲はようやく、余裕のある顔をしてくれた。
「行く当てはあるの?」
「……裏社会。お前の親父みたいなクズでもある程度生きられたんなら、俺らにも希望はある」
「でも、あそこは地獄だよ」
「お前が居れば、何処だって天国だろーが」
「…………エゴイストめー」
そうして、起きた。ああ。なんだ。
夢か。
しわくしゃの指に伝う血管に通うものは、この心臓から送られてきた。
そうだな。ここは、地獄か。
天国か。
もう、
──どっちか分からんな。ふむ。
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