番外編 ─ 開演前のリハーサル─

障子越しに朝の光が差し込んでいた。

ほのかに温かく、けれどまぶしすぎない。演出された舞台の明かりとは違うやわらかい光。


(……朝か)


重い瞼をゆっくりと持ち上げると、昨日と同じ格子の天井が静かに視界に入る。

畳の匂い、木のきしむような静けさ。まだ現実だとは信じきれないけれど、夢じゃない。


(晴明の屋敷。俺は、花菊だけど……安倍晴明として生きてる)


襖の向こうから、かすかな足音がした。


「晴明様。朝のお支度の用意ができております」


慎ましやかに声をかけたのは、実朝だった。


「……入って」


そう言うと、襖が音を立てずに開かれた。朝の空気とともに、彼の姿が滑り込んでくる。白い直衣が淡い光を吸って、ふわりと浮かんで見えた。


「お目覚め、何よりでございます」


彼の声は、昨日よりも少しだけ柔らかかった。


「昨夜は、よく眠れた……気がする」


言葉を濁すのは、まだ自分が“ここ”にいる実感が薄いからだ。


「それは何よりでございます。

湯をお運びしております。お疲れも残っておりましょうし、よろしければお使いください。」


実朝は、柔らかく微笑みながら"晴明"に話しかける。


小さくうなずいて身を起こすと、単衣の袖がからりと鳴いた。身体は軽くなっていた。熱はもう、引いているみたいだ。


──

湯殿は、木と石の静謐な空間だった。

熱すぎず、けれど芯から温まる湯に浸かると、不思議と肩の力が抜けていく。


(ここが平安で、俺は安倍晴明で……)


湯気の向こうにぼんやりと見える天井を見上げながら、花菊はそっと息をついた。マジックの舞台袖で、開演前に深呼吸する時と、よく似た感覚だった。


──

湯から上がると、すでに庭先に縁側が用意されていた。

日差しはまだ柔らかく、庭には手入れされた植栽と、池に映る空の青。


その静けさの中に、実朝が待っていた。


「少しだけ、話をしてもいいか?」


「はい。おそばにおります。」


実朝は、常に距離を測る。近すぎず、遠すぎず。だがその所作ひとつひとつに、誠実さがにじんでいる。


「この庭……きれいだな。誰が手入れしてるんだ?」


「…?半年ほど前、晴明様が藤の花を植えたいからと庭師を呼んだではありませんか。そこから、定期的に手入れをお願いして……」


実朝が不思議そうに話す。


「……俺が?」


ふ、と小さく笑ってしまった。

“俺”という存在と、“晴明”という記憶が噛み合わない。その違和感を埋めるように、何気ない会話を重ねる。


「この池の魚、何の種類か知ってるか?」


「鯉にございます。少し前に、夜盗が池に毒を流し、すべての魚が死に絶えましたが……晴明様が符を用いて、息を吹き返させて……熱で記憶が混乱されておられるのですか?」


「……マジで?」


「マ、マジ?……申し訳ありません。『マジ』とは、どういった意味にございますか?」


「あ〜、本当とか、そう言った意味だよ。」


「えぇ、私もお傍で拝見させて頂きましたが、素晴らしい術にございました。皆、奇跡と称しておりましたよ。」


(なるほど。そういう“奇跡”の積み重ねが、晴明って人物をつくってるのか)


花菊は、庭に視線を落としたまま静かに言う。


「……この屋敷は静かだな」


「晴明様が屋敷の中に、あまり人を入れるなと言ったでわありませんか。なので、使用人も最小限にと……私のような若輩者がお仕えするのも恐れ多いですが…」


「俺は、助かってるよ。実朝がいてくれて」


小さな間があった。

そのあと、実朝はふっと表情を緩めた。


「光栄にございます」


「晴明様、きっとまだお体がまだ万全ではないでしょうし、そろそろ屋敷の中にお戻りくださいませ。」


日差しが強くなってきた。

けれど、心の内に立っていた警戒の影は、少しだけ薄れた気がする。


(この時代でも、ちゃんと人の言葉は通じるんだ)


花菊は、手のひらをそっと膝の上で握った。

この千年前の舞台で、どこまで自分の“演技”が通じるのか。


その答えを探す一日は、まだ始まったばかりだった。

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ladies and gentlemen、ようこそ平安マジックへ 永福丸 @nagahukumaru

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