第40話 ザフィルが髪を触るとき

 リュシアはザフィルの顔を、眩しいものでも見るようにして目を細めて見つめた。


 深緑のターバンと青と白の騎士服は新しい組み合わせだが、彼らしくてよく似合っている。腰から下げている剣は使い込まれたザフィルのいつもの武器――曲刀だ。


「いらっしゃい、よく来たわね、なにか用? 似合ってるわよその制服、ちゃんとサイズ合わせてもらったのね。騎士団でいじめられてない?」


 勢い込んで喋ると、ソファーからクスリという苦笑が聞こえた。ルネが顎に手をあてて笑っている。


「リュシア、少し落ち着いたらどうだ? まるでおままごとをしている少女のようだよ」


「うるさいわね。あなたには関係ないでしょ」


「少しはあるんだな、これが。ザフィルは私の部下になったから」


「ザフィルが? ルネの部下?」


「私はこれでも副師団長なんだ。エルネスト殿下が率いる部隊の」


 その説明に、リュシアは目をぱちくりさせてしまった。


 確かに王族は騎士団内にそれぞれの派閥を持っていて、ルネはそのなかでもエルネスト派だということは知っていたが……。役職付きとまでは知らなかった。


「ってことは、ザフィルもエルネスト殿下派になったんだ」


「そういうことらしい。政治のことはよく分からん」


 ザフィルは眉根を寄せて難しい顔をするが、それをルネが請けおった。


「追々理解していけばいいさ。王立騎士団と政治は切っても切り離せないものだからな」


「それよりザフィルはなんでここにきたの。忙しいんじゃないの? あ、べつに非難してるわけじゃないからね。どちらかというとすっごく嬉しいから――」


「今日は休みをもらったから、あんたに改めて礼を言いにきた。あと、久しぶりにあんたの顔を見たくなった。それだけだが、なにかもっと他に理由があったほうがよかったか?」


「ううん……、嬉しい」


 リュシアは素直に認めた。

 その厚い胸板に抱きつきたくなるが、我慢する。


 ザフィルに会いたいといってもらえるのは、単純に、とても嬉しいことだった。


「いろいろとありがとう、リュシア。あんたは俺を騎士にしてくれた。感謝してもしきれないくらいだ」


「私こそ、ありがとう。あなたのおかげで私は自由に結婚相手を決めることができるようになったわ」


 といってからルネの前にある封筒の山に視線を投げて肩をすくめてみせる。


「まぁ私って相変わらずモテモテなんだけどね。うんざりするわよ」


 ザフィルはリュシアの前に立つと、真面目な顔でリュシアの翠の瞳をじいっと見つめてくる。


「ものとものは惹かれ合う。あんたはきっともうなにかを引き寄せている。……それがあんたの属性だからだ、リュシア」


 そこでザフィルは、琥珀色の瞳に柔らかな光を載せて、伏し目がちに微笑んだ。


 大きな褐色の指が、さらりとリュシアの耳の下をかすめて髪に触れる。


「تو را با جان و دل دوست دارم」


 低く、柔らかく、温かい、異国の言葉が囁かれた。


 相変わらず意味は分からない。が、リュシアは雰囲気に飲まれて、胸の奥がじんと熱くなった。何故か涙まで出そうになる。

 意味なんかどうでもいい。ザフィルの低い声が、優しい囁きが、リュシアのすべてをとろかしていく――。


 そして、小さな違和感を覚えて小首を傾げた。


(ん? ザフィルが私の髪を触った?)


 確かザフィルって、女性の髪を触るのは固辞していなかったっけ。


 理由は彼の文化的なもので……そう、確か、こんなことをいっていたはずだ。


『男が女の髪に触れていいのは、妻にすると決めた女だけだ』


 その言葉を思い出したリュシアの顔が、次の瞬間爆発しそうな勢いで熱く染まった。あまりの熱に発光しそうだ。


「ザ、ザフィル……」


「ああ」


 ザフィルはリュシアの栗色の髪を撫でながら、愛おしそうな眼差しで頷いた。その手のぬくもりが、髪を通して頭皮にまで届き、リュシアのすべてを包み込むようだった。


 ああ? 『ああ』って、ああ?

 じゃあ、さっきの言葉は、もしかして。


「……っ、なっ、なんて言ったの、いま、あなたの国の言葉で」


 喉に言葉がつっかえて上手く出てこない。声が震えて情けない。


 ザフィルは優しく笑うと、その手でそっとリュシアの頬に触れてきた。大きな褐色の手のひらの熱さが頬に直に伝わり、それだけでリュシアの熱が数度上がった。心臓はもう、意識で追いつけないくらいに早く鼓動を打っている。


「……俺とまた冒険に出るか、リセ?」


 誤魔化された――不思議とそれが分かる。たぶん、これじゃない。彼が母語で言ったのは、きっと別の言葉だ。

 それは、『好きだ』とか、『結婚してくれ』とか、そういう意味なはずだということが理屈で分かる。


 だが、はぐらかした彼の、赤く染まった頬と潤んだ琥珀の瞳が愛おしくてたまらない。


「出たい!」


 リュシアは頷いた。翠の瞳は泣き出す寸前のようだったけれど、その目は確かに輝いていた。


 そっと、自分の頬に置かれたザフィルの褐色の大きな手に白い華奢な手を重ねる。


「氷龍を倒しに行きましょう。心残りだったの、ルネのせいで結局依頼自体を受け損ねたからね。龍種は危険だと思うけど、あなたが一緒にいてくれるならできると思うわ」


「そうだな。この手で、必ずあんたを守ると誓おう。だから安心して龍と戦ってくれ」


「却下だ」


 ソファーから唸るような声が聞こえた。ルネだ。


「だいたいザフィル、君は騎士団の仕事を始めたばかりだろう? 勝手に抜けるなんて許されると思っているのか。エルネスト殿下は君に大いに期待しておられるのだから、その期待を裏切らないように。――って、聞いてるか二人とも?」


 もちろんルネの小言など二人の耳には入っていない。


 ザフィルは琥珀の双眸を熱っぽく優しく細めてリュシアを見下ろしていた。それを見上げるリュシアの翠の瞳はうっとりと揺れている。


 二人の瞳はただ互いだけを見つめていた。二人の手は今や完全に重ねられ、頬の上で指まで絡ませ合っている。


「君たちは……まったく。これが君のけじめか、リュシア。私はどうしたらいいんだ。諦めたくはないんだが……こっちは歴史が違うんでね。ああ、入団早々の脱退はやめてくれよザフィル、君は国王陛下が御自ら入団させた期待の新人なんだからな――」


 まだまだ続くルネのぼやきも、カーテンの衣擦れの音程度にしか耳に届かない。


 ザフィルにも重力があるのだろうか、とリュシアは考えていた。きっとある。そしてリュシアにもある。いまその重力は惹かれ合い、二人をピッタリと引き寄せてくれている。

 その証拠に、リュシアにはなんとなくイメージが浮かんでいた。


 リュシアの心はピンと張った布に重りを載せたときのように漏斗状になっているのだ。同じく漏斗のようになったザフィルの心の中心が、リュシアの中心に向かって重なるように落下してきている。リュシアの中心も、ザフィルの中心に向かって落ちていく。

 そうやって、やがて二人の重力は一つになるのだろう。


 惹かれるままに落ちていき、重なり合う。

 それが重力。――私の属性だ。それを自分で操るのが、私の力なんだ。


 そうやって二人はしばらくのあいだ、ルネのぼやきを背景に、互いだけをただ見つめていた。




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「تو را با جان و دل دوست دارم」


 心と魂の奥深くから、あなたを愛しています。


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「ハズレ属性」と蔑まれて冒険者に転身した令嬢、もう後戻りはしません 卯月八花 @shiragashi

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