第9話 3匹以上のゴブリン

 ザフィルは殺したゴブリンの持っていた棍棒をさっと拾うと、馬車の上に登ったリュシアに向かって声を上げた。


「逃げるぞ! さすがに多勢に無勢だ!」


「待ってよ、なかに人がいるかもしれないんだから……!」


 もし馬車のなかに人が取り残されていた場合、あれだけのゴブリンに囲まれたら助かる可能性はない。だから、助けるなら今助けないと間に合わない。


 リュシアはドアに手をやると、取っ手を掴もうとした。だが、細かく震える手が、ドアを掴み損ねる。


「――リセ!」


 ザフィルが大声でリュシアの偽名を叫んだ。


「早く逃げるぞ! まずは俺たちの身の安全だ、馬車は放っておけ!」


「ちょっと待ってってば!」


 なんでこんなに震えているのか自分でも分からないくらい、リュシアはカクカクと震えていた。いや、本当は分かっている。もちろん怖いからに決まっている。あのゴブリンたちが押し寄せてきたら、さすがにザフィルといえども太刀打ちできないと直感で分かるからだ。


「来たぞ!」


 ザシュッと剣が肉を切り裂く音がした。ゴブリンの断末魔の悲鳴が響く。ザフィルがゴブリンの先兵を斬ったのだ。


「やるなら早くしろ!」


「わかってるってば!」


 ドアノブを掴もうとするが、何度も手が滑る。


 焦りと恐怖とで鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなった。額に汗が噴き出し、頭が真っ白になる。


(早く、早く……!)


 ギャッギャッという叫び声が、何重にも馬車を取り囲もうとしていた。

 それでもザフィルはその場で舞うように剣を閃かせ、馬車に敵を近寄らせなかった。流麗な剣舞を馬車の下にしながら、リュシアの瞳に涙が滲んでくる。

 今は泣く場合じゃないのに!


 こんなはずではなかった。弱いゴブリンを倒してその証拠に棍棒でも持って帰って依頼をクリアして、晴れて冒険者になる――そんな簡単な試験のはずだった。ザフィルとは今回限りの仲間になるはずで、今度はもっと本格的に気の合う仲間を探すつもりだった。


 なのに、ザフィルのいうことを聞かなかったばかりに、ザフィルまで危険にさらしている。


 後悔に震える手が、ようやく取っ手を掴んだ。


(やった!)


 と思った一瞬の後、リュシアの足首が何者かにガッと掴まれた。見ると、小さな緑の手が足首を鷲掴みにしている。その先にある馬車の縁からはゴブリンが顔を覗かせていて、その濁った瞳と視線があったとき、リュシアの全身は凍り付いた。


「きゃああああっ!!」


 悲鳴が喉から飛び出す。


 ゴブリンはしがみついた馬車の側面からリュシアの足を掴み、下へと引きずり落とそうとしていた。


 思わずドアノブから手を離してゴブリンの手を引きはがそうとするが、小さいくせにやけに力強いその手はリュシアの足首を掴んで離さない。ずりずりと、少しずつ馬車の端に引き寄せられていく……!


「リセ!」


 ザフィルがそれに気づいて、慌てて馬車の裏手に回り込んでそのゴブリンを切りつけた。断末魔を挙げて弾けるように手が離れ、リュシアは慌てて足首をさする。まだ手が掛かっているかのような、ゾッとする感覚が纏わり付いていた。


 リュシアを助けたザフィルの暗い琥珀色の瞳が安心したように緩んだ――しかしその背後から、別のゴブリンが彼の頭を狙って棍棒を振り下ろそうとしていた。


「ザフィル後ろ!!!」


 一瞬、リュシアの脳裏にターバンごと頭をかち割られるザフィルの姿が浮かんだ。深緑色のターバンに赤黒い染みを作って、ぐったりと地に倒れ伏すザフィルの姿が。


 私のせいだ、ザフィルのいうとおりすぐに逃げなかったから……!


(……待って)


 恐怖と焦りで頭がカッカとするその一瞬の間に、リュシアは、ふと冷静な自分の声を聞いた。


(大事なこと、忘れてない?)


 ――大事なこと?


(私には、作戦があったはず)


 ――作戦。作戦……作戦作戦作戦作戦作戦作戦、……そうだ、作戦!


 胸の奥に火が灯った。

 息を飲み込み、目を見開く。


(作戦!)


 それは、時間にすれば一瞬の問答だった。


 リュシアは手を前に突き出し、精神統一する間もなく魔術を発動させる。そうして、ザフィルめがけて棍棒を振り下ろそうとするゴブリンに、落とし穴のイメージをそのままぶつけた!



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