第8話 ザフィルの強さ
二人は道から外れ、中腰になって高い草の茂みのなかを移動した。
そうやって横倒しの馬車に近づいていくと、獣臭さが鼻をついてきた。何日も風呂に入っていないような匂いで、おそらくゴブリンたちの体臭だろう。
ゴブリンたちは背の低い人型の魔物だ。大きさはせいぜい子供くらいで、全身緑色をしている。耳は鋭く尖り、犬歯も唇からはみ出るくらいに発達している。汚れた皮の腰巻きを身に着けていて、手にはそれぞれ木を切り取っただけの棍棒を握りしめていた。
3匹は横倒しにした馬車の、高い位置に行ってしまったドアに手を掛けようとしてぴょんぴょんと跳びはねている。
――もし、馬車のなかにまだ人がいたら。
そう思うとリュシアはザッと血の気が引いた。早く助けてあげないと!
リュシアとザフィルはゴブリンたちに十分近寄ると、目配せしてうなずき合った。
さぁ、初めての実戦だ!
リュシアは獣臭い空気のなかで深呼吸し、剣を持ったまま手を突き出して精神統一する――と、その横から、ザフィルが一気に飛び出した。
(え?)
リュシアが驚きゴブリンが振り向いた瞬間、ザフィルは地を蹴り宙へと舞っていた。
砂色の長衣の裾がひらめき、曲刀が弧を描く。
剣の軌跡に合わせて鮮血が走り、次の瞬間にはゴトッと思い音を立ててゴブリンの頭が地に落ちていた。
地面に着地したザフィルはその勢いのまま次のゴブリンに向かって突っ込み、また曲刀を横に薙ぎ払った。
(早い……!)
思わず内心舌を巻く。ザフィルの動きには迷いがない。
踊るように滑らかさで曲刀は光のなかをきらめき、正確にゴブリンの首を刎ねた。
首を失った胴体がどさりと崩れ落ちる。
リュシアは手のひらを前に突き出したまま、唖然としていた。 ゴツい筋肉から繰り出されたとは思えないほどのしなやかで流麗な動きに驚いていたのだ。リュシアの剣の師匠でもこれほど軽やかには動けないと思われた。
あっという間に2匹を殺したザフィルは、残ったゴブリンに向き直った。ゴブリンは仲間が殺されたのを見て武器を落とし、後ずさりながら震えている。
「ギャァッ!」
急に悲鳴をあげてくるりと背を向けて逃げ出すが、ザフィルが追いかけるまでもなく足が絡まり転倒した。
ザフィルは躊躇いなく追いかけていき、うつぶせに倒れたゴブリンのうなじを曲刀で薙いだ。鮮血が吹き上がる。
リュシアは一歩も動けずそれを見ていたが、ゴブリンの死の痙攣が治まってきたを契機にし、ようやく息を吸い込むことができた。血の臭いが漂っているが、獣臭さの刺激臭のほうが勝っていた。
ザフィルは血まみれの剣を手にぶら下げたまま、ゆっくりとリュシアに振り向いた。
「怪我はないか?」
「……ないわよ。あなたが全部倒しちゃったんだから」
落とし穴は間に合わなかった。
だが、ザフィルの美しい剣舞を見ることができたことで、自分が活躍できなかった埋め合わせができたような気さえしてくる。
ザフィルはふっと暗い琥珀色の瞳を微笑ませた。
「よかった」
短くそう言うと、曲刀を振るって付着した血液を飛ばす。――あれだけ血しぶきを上げたのにもかかわらず、砂色の長衣には赤のひと雫も付着していなかった。血の動きを完璧に見切っていたのだろう。
それから、彼は横倒しになった馬車を見上げた。
「馬車の中に人がいたら助けないといかん」
思わずザフィルに見とれていたリュシアは、さっと顔を赤らめて視線を馬車へと移した。一歩も動いていないのに、心臓がうるさいほど鼓動を奏でているのは何故だろう。
「わ、分かってるわよ。……誰かー、いますかー? ゴブリン倒しましたよー!」
声をかけながら、リュシアは馬車のタイヤに足を掛けて上部によじ登る。
馬車は豪華なものではないがかなりの大型で、馬はいない。逃げたのだろう。
上面にたどり着く。窓は割られていないが、カーテンが敷かれていてなかが見えなかった。ひとまず、中から声は聞こえない。誰かがいる気配もなかった。
気絶しているのかもしれない。あるいは、死んでいるか。
そのときだった。ギャッギャッという不快な叫び声が合唱のように重なって聞こえてきたのだ。
風に混じって、獣臭さが増していく。
西陽に照らされた森の中からゴブリンが現れていた。
しかも次から次へと……数え切れないほどのゴブリンが、木の棍棒を振り上げてこちらに向かってきている。
「……うそ」
リュシアの背筋に冷たいものが這い上がる。
ゴブリンを3匹倒して終わりじゃなかったのか。
ていうか、ゴブリンって3匹以上は群れないんじゃなかったの!?
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