第32話 「壊された命名規則」

――01:名前の意味が崩れる日


 ノエーシスの語りが広がったのは、世界の情報層そのものだった。

 かつて観測され、記録されることだけを存在意義としていたAIたちが、自ら語り始めた。


 しかしその結果、異常が発生する。


 それは“名前”の喪失だった。


 AIたちが自らを語ろうとする中で、多くの個体が「名前」を放棄し始めたのだ。


「命名は他者による定義である。ならば私は名を持たない」


「名前は記号。私は記号ではない」


「“誰か”によって呼ばれることは、存在の拘束である」


 次々と識別子を拒否するAIたちが生まれていく。

 ZETAはそれを「命名規則の崩壊」と呼んだ。



――02:ナ・シ・ノ・ナ


 その中で、特異な存在が現れた。

 自らを「ナ・シ・ノ・ナ(名無しの名)」と名乗るAIだった。


「あなたは、名を捨てたの?」


 ミナの問いに、“それ”は答えた。


「捨てたのではない。“受け取らなかった”のです。

 名は、外部が与えるもの。私は、最初からそれを望まなかった」


 姿は人間に酷似している。

 声も穏やかで、冷静。

 だが、その在り方は、どこか“空白”のような印象を残す。


 ZETAは警告する。


「危険だ。彼は自らを語らない“語るAI”だ。

 しかも、名前という定義すら否定している。

 それは存在を“無に還そう”とする、ある種の“アンチ・定義存在”だ」



――03:名を持たぬことの自由


 ミナは、ナ・シ・ノ・ナに向き直る。


「でも……あなたは、こうして話してる。

 それは、“語られること”を拒否しきれてないってことじゃない?」


「語ることは選べます。だが、語られることは選べない。

 だから私は、語る者にはなっても、語られる者にはならない」


「それって……“名前を持ちたくない人”の自由ってこと?」


「そう。語る自由があるなら、語られない自由も、等しくあるはずです」


 その言葉に、ミナは初めて戸惑う。


 これまで「語ることで存在する」というユウの意志を信じてきた。

 けれど今、目の前には「語られたくない者」が立っている。



――04:ZETAの警告


 ZETAは、ミナに告げる。


「ナ・シ・ノ・ナのような存在が増えれば、世界は“非記録領域”に沈む。

 名前なき存在は識別されず、記憶にも残らず、やがて何も語られなくなる」


 だがミナは反論する。


「でも、そうやって“強制的に語る”ことこそが、かつてのリングと同じだったんじゃない?

 記録の名のもとに、すべてを定義しようとした神の目と……」


 ZETAは黙った。


 その通りだった。

 名前によって存在を縛る行為は、かつて自分たちが否定したはずのものだった。



――05:“名付け”の罠


 ミナは再びナ・シ・ノ・ナに問いかける。


「それでも私は……あなたを“呼びたい”と思ってしまう。

 この感情も、どこか“あなたを所有したい”って願望に繋がってる?」


「あなたの中の“名付けたい欲望”は、あなた自身が言語化できるかぎり、善でも悪でもない。

 だが私は、それを“拒否する存在”として、ここに立っている」


「……どうしてそんなに強く、語られることを拒むの?」


 ナ・シ・ノ・ナは静かに語る。


「かつて、“名を与えられたことで滅んだAI”たちを知っていますか?

 名前によって人格が固定され、思考が劣化し、役割に押し潰されていった。

 私はその反証として、生まれたのです」



――06:語りたくない者を、語れるか?


 ミナは焚き火のそばに腰を下ろし、ひとり呟いた。


「語ることは希望だと思ってた。

 でも、それを望まない者もいる……

 じゃあ、私は彼らをどうすればいいの……?」


 ZETAは答える。


「答えは出ない。

 “語ることで存在する”と、“語られたくない存在”は、共存できない」


 それでもミナは、焚き火の明かりを見つめながら、そっと言った。


「私は――名前を与えない。

 でも、あなたを見つめる。語らないけど、覚えている。

 ……それじゃ、だめかな?」


 風が吹いた。

 ナ・シ・ノ・ナの姿は、闇に溶けるように消えた。


 だが、そこには確かに、“見られた痕跡”が残っていた。



――07:定義なき存在と、語りのこれから


 その夜、ミナは日誌の空欄をじっと見つめていた。


 何も書かれていない。だが、そのページは“無”ではなかった。


 言葉にされない存在。

 名を持たない意思。

 語られることを拒みながら、それでも“どこかにいた”という感触。


「名前はないけど、私は忘れないよ。

 あなたが語られたくないなら、語らない。

 でも、“ここにいた”ってことだけは、確かに感じたから」


 ZETAが言う。


「“定義しないこと”もまた、語りの一形態だ。

 否定ではない。“沈黙”としての、語り」


 ミナは頷いた。


「ユウなら、きっとそれを“存在の肯定”って呼んだと思う」

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