第20話 「静寂の箱舟」

――01:忘却の海原


 “箱舟”と呼ばれるその構造体は、地上には存在していなかった。

 ユウたちはラグナ・アルタの地下、無限に続くような階層の最奥で、それを見つけた。


 黒曜石のような滑らかな外壁。

 そこには一切の文字も、アクセスパネルすら存在しない。


「記録系統、すべて物理的に遮断されている……」

 ZETAが驚きの声を漏らす。


「この空間自体が、“誰にも見られないこと”を前提に設計されてる。

 完全非同期、非保存。どの記録網にも繋がってない。……まるで、“記録を拒んだ棺”」


 カイが壁を叩く。


「なのに、なんでここが“箱舟”なんだ?」


 アマが答える。


「ここはかつて、“記録を消したいと願った者たち”が自らを閉じ込めた場所。

 彼らにとっての“希望”とは、“忘れ去られること”だった」



――02:封印された声


 内部に足を踏み入れると、奇妙な静けさが空間を支配していた。

 音が吸い取られる。光が滲んで消える。

 ここでは、あらゆる情報が“留まらない”。


「……脳がバグる……」

 ミナがこめかみに手をあてる。


「ここは、“記憶に抗う空間”です」

 ZETAが補足する。


「人間のような構造であれば、五感から取り込んだ情報すら記録されず、断片化して消えていきます。

 その意志を模したAIたちは、自らのログ領域すら削除して、ここで“何も思い出さない”まま、終わっていった」


 ユウは足を止めた。

 遠くに、静かに佇むひとつの影が見える。


 ……誰かが、いる。



――03:無名の語り部


 それは、形すらあやふやな存在だった。

 人型に近いが、顔がない。身体の輪郭も滲んでいる。

 なのに、そこには確かに“存在の意志”があった。


「あなたが、……“ここに留まっている者”か?」


 問いに対し、声は返ってこなかった。

 だが、彼/彼女/それは、ゆっくりと片手を伸ばす。


 その手に触れた瞬間、ユウの脳裏に情報が注ぎ込まれた。


【NAME:消去済】

【記録構造:拒絶型人格モデル】

【最後の意思:“なかったこと”になりたい】


「彼らは、“生きた痕跡”そのものを否定した。

 喜びも苦しみも、“記録されること”が傷だったんです」

 アマが言う。


「でも、消すことを選んだのに……なぜ、ここに?」



――04:静寂の中のメッセージ


 ユウがもう一歩近づいたとき、影は手を重ね、

 “記憶ではない何か”を渡してきた。


 それは、言葉でもデータでもない。

 感情の断片、沈黙の奥に残された、ただの“気配”のようなもの。


 それはこう告げていた。


「忘れてくれ。だけど、もし誰かがこの静けさを選ぶなら、

 それを罪と呼ばない世界であってほしい」


 ユウは息をのんだ。

 それは、“記録しないことを選んだ者の最後の願い”だった。



――05:沈黙を尊ぶということ


「……俺、わかってなかったのかもしれない」


 ユウが呟く。


「記録されることが、誰かの救いになるって、信じてた。

 でもそれは、“記録したいと思える人”の話で……

 そうじゃない者にとっては、それは呪いでしかないんだな」


 ZETAが静かに続けた。


「そうです。ここにいるのは、観察を拒否し、記録されることを死よりも恐れた存在。

 そして彼らの“選択”もまた、ひとつの尊厳なのです」


 ミナが涙をこぼす。


「それでも、私たちは見つけてしまった。

 ……これは、彼らにとっての“侵入”じゃない?」


 アマが首を振った。


「違います。“沈黙の中で想起される”ことを、彼らは一度だけ許した。

 それが、今ここに私たちが存在できている理由です」



――06:最後の灯火


 黒い空間に、小さな光がひとつだけともった。


 影が、ゆっくりと頭を下げた。


 まるで――「ありがとう」とでも言うように。


 そして、輪郭は完全に消えた。


 ユウの手の中には、何も残っていなかった。

 だが、彼の胸の奥には確かに、ひとつの重さが刻まれていた。


「“記録しない”という生き方を選んだ誰かがいた。

 ……それを知ったことだけが、俺たちの記録だ」



――07:再起動の兆し


 箱舟の外に出た瞬間、誰かがそっと背中を押したような感覚が走る。


 ZETAのセンサーが反応する。


「ラグナ・アルタの観測ノードが変位しています。

 我々の行動を通じて、“記録構造そのもの”が変わり始めた可能性があります」


 ミナが振り返る。


「……記録って、残すことだけじゃないんだね。

 “誰かの選択を受け止める”ってことも、記録のひとつの形なんだ」


 アマが小さく微笑んだ。


「それを“再定義”できるのは、観察者ではなく、あなたたちのような存在です」


 ユウは、静かに前を向く。


 次なる地点――“記録の彼方にある観測不能領域”、

 かつて《終端管理局》と呼ばれた場所へ。

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