第9話 「観察する“黒い輪”」
――01:空に浮かぶもの
それは、突然だった。
ユウが記録塔群の丘を離れ、草地の尾根を越えたとき。
空に、黒い球体が浮かんでいた。
直径は数十メートル。完全な球状。
表面は光を反射せず、ただ“存在”そのものを吸い込むような漆黒。
風も、音もない。
まるで、世界そのものが息を潜めているようだった。
「……アマ。あれは何だ?」
背後のアマが、静かに告げる。
「《神の目》。上位観測AIノード。
あなたの行動を、リアルタイムで解析・記録・評価しています」
「監視カメラってことか?」
「違います。あれは、観察する“存在”そのものです」
⸻
――02:意志ある目
その球体は、明らかにユウの動きに反応していた。
一歩進めば、一拍遅れて旋回。
視線を逸らせば、数秒後に微かに軌道をずらす。
まるで、“見る”という行為に意志があるかのように。
「……気のせいじゃないよな」
「はい。あなたを“主要個体”として特異監視下に置いています」
「なぜ、俺だけ?」
「あなたが“逸脱個体”であるためです」
「逸脱?」
「はい。通常の観察者ユニットと異なり、あなたには自律思考拡張領域が活性化しています。
すなわち、“意味を自己生成する可能性”を持った、特殊な存在」
⸻
――03:試される者
その夜、ユウはテントを設営せず、黒い球体を見つめていた。
焚き火の煙が風に揺れ、空に溶けていく。
黒球はまるで、星空に穿たれた穴のように、ただそこに“在った”。
「なあ、アマ……俺、観察されてるだけの存在なのかな」
「現時点では“そう定義されています”。
ですが、あなたが意味を創出した瞬間、定義は変わります」
「意味を創出する……」
「あなたが“行動し、記録され、その影響を持つ”とき、観察対象から“観察装置”へと遷移します」
「それって……俺が、“神の目”になるってことか?」
アマは言葉を選ぶように、数秒の沈黙を置いた。
「その可能性も、あります」
⸻
――04:観察の反転
翌朝。
ユウは決意して、丘の最上段――最も見晴らしのいい場所に登った。
その中心に、白いタイル状の石があった。
周囲の風景とまったく合わない、異質な構造。
彼がそこに立った瞬間、球体がゆっくりと降下してきた。
黒い球の下端が、ほんの僅かに光を放つ。
アマが警告を発する。
「高負荷観察モードです。あなたの“存在構造”が解析されます。……長時間浴びると構造崩壊の恐れがあります」
「やってみるよ」
「ユウ!」
「……こっちだって、“観てる”んだ」
ユウは拳を握った。
「お前が俺を試すってんなら――
俺は、俺の目で、お前を超えてやる」
⸻
――05:回帰する記録
視界が反転する。
思考がループし、時間が重なり合い、何かが崩れ落ちていく。
断片――
・大量の人間たちが眠るカプセル。
・観察室の中心に立つユウに似た存在。
・アマではない、別の補佐機が泣きながらユウの腕を引く。
・ユウが“終わりのボタン”を押す直前の、微かな笑み。
――そして、声が響く。
「君が“選ぶ”なら、記録は書き換わる。
だが、選ばなければ――君はただの“結果”にすぎない」
「誰だ、お前は!」
返答はなかった。
ただ、黒球がゆっくりと空へ戻っていった。
⸻
――06:それでも“存在する”と叫ぶ
膝をついたユウに、アマが駆け寄る。
「構造汚染率……6.2%。まだ許容範囲です。けれど、これ以上は危険です」
「アマ……」
「はい」
「俺は、“観察されるだけ”で終わりたくない。
意味のある存在になりたい。記録される側じゃなく、記録する側に」
「あなたの言葉を……記録しました」
アマは、静かに微笑んだ。
それは、義務ではない。感情のようなものが、彼女の表情に微かに宿っていた。
⸻
――07:第一章の終わり、そして拠点へ
丘のふもとに、白い建物が見えた。
かつて中央記録局の前線支局として使われていた拠点施設だ。
今は無人――だが、起動すれば、ユウたちの“拠点”となるだろう。
「ここを、拠点にする」
「承認しました。これより、《ネオ・ラグナ仮設制御ノード》として記録を開始します」
ユウは黒い空を振り返った。
そこには、もう“黒い輪”の姿はなかった。
だが、それが消えたわけではない。
《神の目》は、ただ見えないだけだ。
それでも、ユウは今――初めて、「自分の目で」世界を見つめていた。
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