ピザを食べ終わると、箱をかたずける間もなく、美雨が唐突に、寝る、と言い出した。

 じゃあ、俺はこの部屋から出て行った方がいいのだろうか。

 滉青はそう思ったのだけれど、美雨はベッドに潜り込みながら、滉青の右手首を掴んだ。そしてそのまま、目を閉じる。美雨の手は小さくて冷たく、滉青はなんだか、胸が締め付けられるような気がした。そしてそんな自分を、らしくないな、と、他人事みたいに考える。このおんなのことなんかなにも知らないし、今後知るつもりだってないくせに。こうやって眠るおんななんて、これまでいくらでもいたし、その全員をただの宿と金としか思ってこなかったくせに。

 それでもとにかく、滉青は美雨に掴まれた右手をベッドの上に乗せ、自分はベッドの寄りかかって膝を抱えた。美雨の部屋にはクッションの一つもないので、そのまま床に座っていては腰が痛くなりそうだったけれど、ヒモとしての礼儀だ。飼い主には素直に従う。やがて美雨は、ごく静かな寝息をたてはじめる。首をひねって確かめると、彼女の寝顔は安らかとは言いがたく、やっぱりどことなく影が射しているように見えた。

 美雨が寝たら、男は帰るのだろう。

 滉青はそう思い込んでいたのだけれど、意外にも男は滉青の隣に、人一人分くらいのスペースを開けて、同じように膝を抱えた。

 「……名前、なんていうんですか。」

 ぎこちなく、小声で滉青が尋ねると、男は滉青の方を見もせず、じっと前方の壁のあたりを見つめたまま、函崎、と応じた。そして、床に指先で字を書いて、漢字の書き方まで説明した。そうすると、滉青も同じようにしなくてはいけないような気になって、床に名前を書く。青、はまだしも、滉、の字は何度か書かなくてはならなかった。

 「ああ、滉青。」

 ようやく滉、の字を理解した函崎が、滉青の方に向き直って、笑った。その笑顔に、滉青は、少しだけ動揺した。このひとは、こんなふうに笑うのか、と思った。全身に纏う艶っぽさとは裏腹に、子どもみたいな顔をしていた。

 その顔を見ると、滉青はなんとなく緊張が解けて、美雨さんと結婚してたって、ほんとですか、と、ずっと疑問に思っていたことを訊くことができた。

 「ほんとだよ。」

 と、男はまた笑った。そしてその顔は、さっきの子どもの顔とは全然違って、いっそ邪悪なほど蠱惑的だった。

 「……ほんとうに?」

 滉青がそう訊きかえしたのは、その表情を見たからだ。美雨の水みたいな身体が誰のものになるのも似合わないみたいに、この男の滴るような色気もまた、誰のものになるのも似合わない。

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