第二章 赤い教室の囁き【中篇】
千鶴と竜二、トモヤは出口を求めて曲がりくねった廊下を駆ける。しかし、曲がるたびに空間が歪み、同じ場所に戻ってきたような既視感に囚われる。学園の廊下はもはや知っている場所ではなかった。
赤い光の脈動が、学園全体の血流であるかのように、静かに、だが確実に空間を染め上げている。千鶴、竜二、トモヤの三人は、足音を響かせながら、出口のない廊下を走り続ける。
「ここ……さっきも通った……!」
トモヤの声が上擦る。喉が張りつくように乾き、息が上がっていた。額の汗が赤い光を受け、血のように見えた。
千鶴は脇目もふらず、ただ前を見つめる。耳の奥で時計の針の音が幻のように響く。胸元にある懐中時計の針が、見たこともない動きで震えていた。午前二時四十三分。あの時と同じ、止まった時間のはずなのに。
(あの夜の……続き……)
「……おい、ここ……」
竜二の声が掠れ、指先が震える。
そこは、赤い教室の前だった。さっき確かに飛び出したはずの、あの扉。扉の表面に浮かぶ、赤黒い血のような染み。そして、微かに聞こえる、システムの無機質な声。
《幸福度……沙汰……》
トモヤの顔色が青ざめ、無意識に両手を擦り合わせていた。
(落とせ、落とせ……血じゃない、落ちろ……)
手のひらの皮膚が擦り切れ、かすかな血が滲むのも気づかず、ただその行為に縋る。
千鶴はふと、壁に刻まれた血文字に目を留めた。
「しあわせ」「救済」「贖罪」
それは滲み、滴り、まるで壁そのものが生きているかのようにゆっくりと形を変えていた。
(私たちは、幸福度を測られているんじゃない……)
胸の奥で、止まったままの時間が再び動き出しそうな予感。
(絶望の度合いを、選別されている……)
闇の廊下を駆け抜ける足音が、異様に大きく響いた。どこからか、軋むような電子音と、無数の小さな歯車が噛み合うような金属音が混ざり合っていた。その音は、確実に三人の背後に迫っていた。
「逃げ場が……ねぇ……!」
竜二は荒い息を吐き、額の汗を袖で拭った。
(くそ、あのシステム、何なんだ……!)
廊下の先、非常口のランプが、嘲笑うかのように、赤く点滅している。
廊下は、闇に包まれ、まるで迷路のように歪んでいた。曲がり角をいくつ曲がっても、どこかで赤い教室の扉が見える。
出口だと思った場所が、赤い光に染まるたび、ただの壁に変わっていく。出口を求めて走るほど、逆に赤い教室へと引き戻される。まるで、学園そのものが迷宮に姿を変えたかのようだった。
「来る……来るっ……来る……!」
トモヤの唇が小さく震えていた。彼の頭の中には、あのスピーカーの声が響いていた。
《幸福度……低き……淘汰……》
(幸福度……俺は、俺は笑ってた……ちゃんと笑ってた……!)
トモヤは自分の口元に触れた。嘘の笑顔の感触が、指先にこびりついているようで、彼は無意識に唇を擦った。
竜二が後ろを振り返る。
「来てる!」
そこに、人とも影ともつかぬ【それ】がいた。赤い光の中、歪んだ白い面が無表情に浮かんでいる。影は複数だった。どれが本物で、どれが光の幻なのか、見分けがつかない。その面すらも、人間の恐怖を映した幻影なのかもしれない。
しかし、それが、今までぼんやりとしか見えていなかったあの鬼の、ついに現れた顔だった。
「こっちだ!」
竜二が脇の扉を蹴り開けた。
教室の中は、すべてが赤かった。壁、床、机――赤の濃淡が無秩序に重なり、まるで誰かの内臓をぶちまけたようだった。床には古びたプリントが敷き詰められていた。その一枚一枚に、微かに血のような赤茶色の染みが滲んでいる。匂いもあった。鉄のような、湿った布のような、何とも言えない臭気が鼻にまとわりつく。
「……ここも……」
トモヤの声が、もう声にならないほど掠れている。そこは、ずっと逃げているのに、付いて回ってくる赤い教室だった。
千鶴の心臓が跳ねた。視界の隅に、あの夜の光景が重なる。血塗れの床。転がる机。赤い教室の真ん中に倒れていた友の白い手。
かすかな歌声が聞こえる。暗がりの中、教室の隅にぼんやりと浮かぶ人影――お松だった。けれど、何かが違った。
「この子の小さな手……今も覚えてる……」
お松は、夜の学園の清掃を習慣のように続ける掃除婦として、身をついやし、かつての罪と贖罪の狭間で生きていた。その表情は穏やかで、だがその目は赤い教室の闇を見据えて、わずかに涙を滲ませている。
千鶴の背筋を冷たい何かが這い上がる。お松がモップをゆっくり引きずる音は、まるで誰かのすすり泣きのように聞こえた。心の奥が、ひたひたと黒い水に沈んでいくような感覚。
「……お松……さん……」
千鶴がそっと声をかけたが、お松は反応しない。ただ、子守唄のようなものを口ずさみながら、モップを片手に、床を擦り続けていた。
何か言おうとして、それでも声に出せなかった。出したら、何か取り返しのつかないことが起こる気がした。
お松は教室の中央に立ち尽くし、どこか遠い昔の幻を見ているようだった。
「……やはり……また、始まるのか……」
お松は小さく口ずさむ。童謡の一節。それは夜の闇に溶け、死神の子守唄のように響いた。
異様な光景に、トモヤは思わず後ずさる。しかし、その目はお松を捉えていた。
耳の後ろで、心臓がドク……ドク……と音を鳴らしている。空気が喉の奥で詰まり、胸を強く押されているような感覚になる。
恐怖の渦に巻き込まれるように、頭の中にあった霧が一瞬、消えていく。その瞬間、トモヤは固まっていた体を突き動かして、赤い教室を飛び出していた。
──あの夜の、血のような赤い月はまだ空にあった。
風もなく、闇がまるで生き物のように学園を覆い尽くしている。赤い教室を飛び出した千鶴たちは、無言のまま古びた渡り廊下を駆け抜けていた。
足音が乾いた木の床を叩くたび、どこか遠くでそれに呼応するような低い機械音が微かに響く。
「追ってくる……?」
竜二が息を切らし、肩越しに闇を見やった。
しかし何もいない。ただ、闇。だがその闇は、ただの闇ではなかった。何かが見ている。感じるのだ、肌の奥の神経がざわつくのを。
千鶴の指が、懐中時計をぎゅっと握りしめた。冷たい金属の感触が、僅かな現実の支えだった。止まった針が指に刺さるようで、時計の時刻がまぶたの裏に焼き付く。──午前二時四十三分。
「また、あの時間……」
千鶴はふと足を止めた。竜二とトモヤが振り返る。
「……千鶴?」
「聞こえた……声が……」
耳を澄ます。どこかで、確かに誰かの声がした。泣いているのか、笑っているのか、判別できないようなかすかな声。いや、声だけではない。廊下の奥の暗闇、朽ちた扉の向こう、割れた窓の向こうの夜気、そのすべてから誰かの囁きが滲み出してくる。
『──しあわせになりたい』
『たすけて』
『しょくざいを……』
かすれた声たちは、過去に教室で命を絶った者たちの、断末魔のようだった。そして、その声に混じって、かすかな電子音がする。耳に届かぬような周波数の低い【機械の鼓動】
千鶴は振り返る。赤い光の奥、廊下の闇に、微かに白い仮面のようなものが浮かんだ気がした。無表情で、冷たい光を宿した仮面。それが、鬼システムの【顔】なのか。
千鶴の脳裏に、断片的な映像が駆け巡る。血だまり。倒れた友の手。懐中時計を渡す、その手の震え。
(やめて……やめて……あの夜に戻さないで……)
赤い光が、さらに強く脈動する。機械音が迫る。三人の影が、学園の暗闇に溶けていく。
鬼システム──それはまだ、どこかで彼らを見ていた。
――――――――――
そのころ、監視室では教師の三上が、モニターに釘付けになっていた。蒼白な顔で見つめている。
学園中のカメラが切り替わり、赤い教室の扉が自動で開閉を繰り返す様子、赤い光が廊下を蝕む様子が映し出されていた。
赤外線カメラが捉える、赤い教室周辺の映像。そこには、歪んだ影と、無数の数値が踊っていた。
《幸福度リアルタイム更新》
《選別プロセス進行中》
(違う……これはただの管理じゃない……運命そのものを、操作しようとしている……!)
三上は震える指で録画データの保存ボタンに手を伸ばす。だが、次の瞬間――モニターが一斉にノイズを走らせ、映像が消えた。
「やはり……システムの意志……」
三上の背筋に冷たいものが走る。
かつて教師の一人だった女が、鬼システムの初期設定に携わったことを三上は知っていた。
幸福度という数値で生徒を管理し、統率しようとした学園の闇。だが、その数値はどこかで狂い、システムは意思を持ったかのように、生徒の選別を始めた――そう噂されていた。
三上は、今日の巡回で見つけた設計図を机に広げる。知れば、死ぬ。それでも、知らずに消されるよりはましだと、三上は決めていた。震える指で、設計図の端を強く握り締める。
鬼システムのプロトタイプ。封印された、中枢部分。そこには、小さな文字でこう記されていた。
《幸福度の真の計測基準――従順度、同調性、絶望値》
《社会維持のため、絶望が
つまり【幸福度】とは生徒の従順さ、そして不要となれば【処理】するための指標でしかなかったのだ。真の目的は、最適な支配構造を維持するための【選別】。
三上の頬を、冷たい汗が伝った。ずっと心にあった疑念が次々と、パズルのように、頭の中で組み立てられてく。
「……これは、幸福の配分じゃない……絶望の選別だ……」
彼はあの夜の記録を思い出す。幸福度の低い生徒が、次々と赤い教室に呼ばれ、そして消えた。残されたのは誰もいない空間、そして意味不明のエラーメッセージが連なる管理端末だけだった。彼は学園の幸福配分システム、その裏に潜む本当の目的に気づき始めていた。
廊下の奥で、監視カメラの赤いランプがぼうと光った。三上はその瞬間、身を凍らせる。
(見られている……鬼に……)
額から汗が滴り、古びた設計図の紙に滲む。
三上は、恐る恐る振り向いた。しかし、そこには何もいない。けれど、確かに感じるのだ。あの視線を――システムの、鬼の【目】を。
(私も……選ばれる……)
教室のどこかで、また血文字が刻まれる音がする。
「しあわせ」「救済」「贖罪」
夜は、なお深く、より赤く染まっていった。
「これは……制御不能だ……」
額の汗をぬぐおうとした手が止まる。モニターの一つに、赤い光の中に浮かぶ白い面が映っていた。その面は、直接カメラを見ている。三上は息を詰まらせ、喉を鳴らす。
ノイズが走った。モニターの中の白い面が、画面越しに微かに笑ったように見えた。
《幸福度……淘汰対象……》
その音声が、監視室のスピーカーからも、三上の耳元で囁くように響いた。
「や、やめろ……私は……関係ない……!」
三上は椅子を倒し、背後のドアに手をかけた。だが、ドアは冷たく、重く、まるで意思を持つかのように閉ざされていた。モニターの中の廊下で、複数の影が監視室のあるフロアへ近づいてくるのが見える。
そのとき、部屋の明かりがふっと落ちた。次の瞬間、スピーカーから響いたのは、あの無機質な声。
《幸福度低き者は淘汰対象》
冷たい空気が背筋を這い上がり、三上はその場に崩れ落ちた。
「見逃して……くれ……俺は……システムを守ろうと……」
モニターには、赤い教室の壁に浮かび上がる新たな血文字が映る。
《見た者は、贖え》
また、赤く染まった監視モニター。そのすべてに、同じ【顔】が映っていた。白く、無表情で、だがどこか歪んだような笑みを湛えた、あの鬼の面。
(カメラ越しに……見ている……いや……見られている……)
(消される……! 鬼システムに気づいたものは……)
鼓動が耳の奥で爆音のように響いている。三上は無我夢中で扉を叩く。指先の感覚を失い、爪が剥がれる感触さえわからなくなっていた──ただ、消される恐怖に支配され、ただ、ただ助けを求めて叫び続ける。
「……助けて……くれ……」
三上の声はもはや自分でも聞き取れぬほど弱々しく震えていた。しかし、答える声はない。モニターは次々にノイズを走らせ、赤い光に呑まれていく。
赤い光が監視室を満たす。白い面が、扉の隙間から、音もなく忍び込むように現れたのを、三上は確かに見た。
――叫び声は誰に届くこともなく、ただ虚しく反響しただけだった。
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