第二章 赤い教室の囁き【後篇】

「どこまで行っても……戻る……!  出口が……ない……!」

 降りたはずの階は、同じ赤く光る廊下につながっていた。近くの扉を開けてみれば、そこは赤い教室。どこの扉を開いても、あの赤い教室なのだ。 

 空間が、蠢いている。鬼システムの意志が、学園そのものを迷宮に変えていた。抜け出せない。3人は恐怖と不安で、焦りが見え始めていた。


 だから逃げたくて、逃げるために、走って、走って、走って、そして3人は限界にまで来ていた。一度、休む必要がある。しかし、この学校の中で、安心して休めるところなどあるはずもなかった。


 廊下の片隅で、周りを警戒しながらも、体力の回復を待つことにした。

 誰も何も言わない。何も言えなかった。話す余裕などあるはずもなく、息を整える音だけが、虚しく廊下に響いていた。


 肺が悲鳴を上げ、息がうまく吸えない。頭の中で何かがキーンと響いている。視界の中心がぼやけ、ただ必死に吸い込む空気は冷たく重かった。心臓の鼓動が頭の奥で爆発するように響いている。


 肩で大きく息をし、肺の奥に冷たい空気を押し込む。だがそれでも、胸の圧迫感は消えない。千鶴は壁に背を押しつけ、指先で懐中時計の冷たさを確かめる。止まった針が、今の自分の時間も止めてくれたなら……そう願わずにはいられなかった。


 壁に影が伸びる。目を赤く光らせた影が、滑るように廊下を移動していた。音もなく、確実に、三人の背後へと迫っている。


 ずっと感じていた視線が、近くにいる。背筋を冷たいものが這い上がり、次の瞬間、耳元で誰かが囁いた気がした


──『見つけた』


 その声が聞こえた瞬間、認識するまでもなく走り出していた。頭の中でサイレンが鳴り響く。


 千鶴たちは、階段を駆け降りていく。旧校舎の地下に向かうその階段は、闇の淵へと続いていた。恐らく、この先は、またあの廊下へと戻るのだろう。しかし、どうすることもなく、できるはずもなく、ただ逃げる。走る。だが廊下の奥に、赤い目が増えていく。


「ふざけんなよ……どこまで逃げれば……!」

竜二が息を荒げた。額には冷たい汗が滲んでいる。


 千鶴の耳に、またあの声が聞こえた。電子音のような呻き。人の声とも、機械の声ともつかぬそれは、じわじわと距離を詰めてきている。懐中時計が胸元で、まるで脈を打つように冷たく震えた。


(追われてる……いや、選ばれようとしている……)

千鶴は胸の奥で何かが確かに囁くのを感じた。

(あの夜と同じ……今度こそ、選ばれる……)


 トモヤは息を切らし、もはや言葉を発する余裕すらなかった。彼の視界は滲み、恐怖で足がもつれそうだ。頭の中では、3年前のあの夜、自分が発した冷たい言葉が反響していた。


『そんなの努力が足りないだけだろ』

 その言葉が、友を追い詰めた。その罪が、今、自分に刃を向けている。


 足音、息遣い、心臓の鼓動――すべてが夜の闇に呑まれ、遠くの誰かに聞かれているような錯覚。


 息をするたび、冷たい闇が肺を突き刺した。足音が響く。自分のものなのか、背後から迫る影のものなのか、もうわからなかった。ただ逃げなければ──それだけだった。


 千鶴の耳に、懐中時計の針の音が響く。

(止まってるはずなのに……聞こえる……)

夢の中で繰り返し見たあの光景。赤い教室、血文字、友の声。


「……ここで……終わるのか……?」


 廊下の角を曲がった先、鉄製の扉が見えた。逃げ場はそこしかない。廊下の奥、非常口のランプがぼう、と赤く明滅している。竜二は、半ば叫ぶように息を吐いた。

「もうすぐだ! 非常口だ!」


 心臓の鼓動と足音が重なり、頭の中で爆音のように響いていた。闇が、赤い光が、すぐそこまで追い詰めてくる。

 冷たい汗が目に入り、視界が滲む。もうすぐ。あと少し。扉はすぐ目の前に。扉まであと数歩。そのわずかな距離が、永遠に届かない場所のように感じる。


「間に合え……!」

心の中で叫び、ただ必死に走った。


 彼らは全力で飛び込み、扉を閉める。直後、廊下に響く金属音と鬼システムの声が扉の向こうに消えた。


 扉を閉めた音がやけに遠くに聞こえた。息が上がり、視界の端が暗くなる。息を切らせ、薄暗い部屋で三人はしばし沈黙した。

 だが、耳の奥に残るあの声、あの光景――そして赤い教室の呼び声が、彼らの心に深く爪痕を残していた。


 やがて静寂が戻る。扉の向こう、赤い光は霧のように消え、廊下の闇に溶けていくのが見えた。しかし、その静寂は、決して安堵を与えるものではなかった。むしろ、どこか蠢くものの息づかいを、よりはっきりと感じさせるものだった。


 千鶴は壁に背を預け、息を整えようとするが、肺の奥に張りつく冷気がうまく吐き出せなかった。胸の中で、懐中時計がじっとりと汗を吸い、氷のように冷たい。


(終わったんじゃない……まだ、これからだ……)


 彼女は薄暗い中、竜二とトモヤの顔に視線をやる。二人とも、恐怖と混乱の色を隠せずにいるようだった。トモヤの手は血のように赤く、震えている。竜二は肩で息をし、唇を噛みしめ、奥歯を軋ませていた。だがその目は、千鶴と同じものを捉えていた。


――廊下の奥、薄闇の中で確かに瞬いた、監視カメラの赤い目。それは機械の光ではなく、意思を持つ何かの【眼差し】のようだ。


「……見られてる。」

 千鶴の声は、自分でも気づかぬほどかすかだった。それでも二人に伝わった。空気が重くなり、部屋の温度がさらに下がったように感じる。


 そのとき、隅に放り投げられていた古びた端末が、微かにノイズを上げた。画面が薄く点滅し、幽霊の囁きのような声が滲む。


《幸福度――データ更新……》

《幸福度ランキング再編成……》

《対象:千鶴……竜二……トモヤ……次回適正化処理……》

《準備中……》


 言葉が終わると同時に、端末の画面は暗転した。だが、その暗闇に、千鶴はふと気づく。画面の奥に、ぼんやりと歪んだ影があったような気がしたのだ。人の顔――いや、人の顔を模した何かの仮面。


千鶴の心臓が嫌な鼓動を刻んだ。

(赤い教室は……あれはただの舞台……。本当の“鬼”は……もっと奥に……。)


 突如、どこからともなく、微かな足音が聞こえた。


コツ、コツ……


 それは人の歩く音に似ていたが、乾いた、空洞を叩くような響きだった。まるで――骨の中に響くような音。


 千鶴は竜二と視線を交わした。トモヤは唇を青くし、声も出せずに震えている。


(また、来る……)


 遠く、校舎の奥で再び赤い教室の扉が軋む音がした。そして夜の闇が囁く。


「……次は、誰の幸福を奪う?」


 その囁きが、どこか人間とも機械ともつかぬ声で、千鶴たちの心の奥に冷たい刃を立てる。外では夜風が、学園の屋根の上を這い、まるで鬼の指先がガラスを引っかくような音を立てていた。


 その夜、学園中の監視カメラが一斉に赤い光を灯し、誰もいないはずの廊下で無数の影がすれ違った。


 翌朝、一人の教師が「失踪した」とだけ記録され、鬼システムの幸福度記録から、その存在そのものが抹消された。それは、選別がすでに人知れず始まっていることを告げる最初の犠牲だった。


 そして千鶴の夢の中、止まった懐中時計の針が、微かに音を立てた。午前二時四十三分の悪夢が、再び動き出そうとしている。


「……これは、始まりだ。」

 暗い教室の中、お松の声が微かに響く。彼女の瞳はどこか遠くを見ていた。

「昔、あれが動き出したときも、同じだった……最初は選別。次は……学園そのものが、喰われる。」


「……あれは、かつて私たちが造った幸福の監視者……いずれ全てを喰らう鬼……」


「このシステムは……もう人の手じゃ止められない。」


「……これが……贖罪の夜……」

お松は立ち止まり、ゆっくりと影に向き合う。

「許して……くれ……」

いつものように童謡が唇から漏れ、そして――影が彼女を呑み込んだ。赤い光が一瞬、廊下を包み、そして闇が戻る。


 廊下の奥、鬼システムの目が赤い光をゆっくり消していく。だが、それは終わりではなかった。


 この夜を境に、彼らは鬼システムの選別の網に確実に絡め取られることになる。学園の幸福配分は、すでに管理の名を借りた【淘汰】へと姿を変えていたのだ。


 この出来事は、やがて彼らを、そして学園全体を巻き込む、さらなる選別の始まりに過ぎなかったのだ。


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