第二章 赤い教室の囁き【前篇】
あたりは息をひそめた獣のように静まり返っている。かつて集団自殺事件が起きたあの夜と同じく、鈍く曇った月が滲んでいる光を落としていた。
無明学園の旧校舎は、夜風に軋む音をあげ、まるで生き物のように微かに震えている。月の光に照らされたその姿は、まるで闇の中に沈む巨大な墓標のようで、見る者の心に得体の知れない不安を植え付けた。
『ここに来て……私たちを……』
どこからともなく聞こえる微かな囁き声。それはまるで闇そのものが千鶴を誘うかのように、意識を深い霧の中へと引き込んだ。
足が勝手に動き出し、薄暗い闇の中、どこかへと向かわせる。冷たい床の感触、窓の外で揺れる木の影、遠く響く時計台の鐘の音が、現実と悪夢の境界を曖昧にしていく。
千鶴はひとり、気づけばその旧校舎の前に立っていた。足元に積もった枯葉が、さわさわと誰かの囁きのように擦れ合う。
(……なぜ、ここに……?)
寒気が背筋を這い上がる。まるで何かに導かれるように、気がつけば足を向けていたのだ。
懐中時計を握る指が冷たく硬直している。
時計の針は――止まったまま。午前二時四十三分を指したまま動かないその針は、あの夜の記憶の断片と共に、彼女の心に深い傷を刻み続けている。胸の奥に、あの夜の冷たい闇が蘇る。
血の匂い。ざわめく声。歪んだ友の笑顔。泣き声。消えた友。壁に殴り書きされた血文字の『シアワセ』という文字が赤い光に滲む。
今夜もまた、その時刻が近づくにつれ胸の奥に重苦しい圧迫感が広がっていった。手の中の懐中時計が微かに震え、月光に照らされている。千鶴は首を振った。
(ここは……あの時と同じ……)
旧校舎の入口に立つと、鉄扉の冷たさが指先にしみた。ゆっくりと扉を押し開けると、きしむ音が夜の静寂に不気味に響き渡る。
赤い教室は旧校舎の奥深く、封鎖された一角にあると言われていた。そこは、かつて集団自殺事件の舞台となり、学園の中でも【最も忌まわしい場所】として囁かれ、今も血の匂いが染み付いていると噂されていた。
千鶴の足音だけが、廊下に反響する孤独な音となって響いている。薄闇の中、窓ガラスに映る自分の影の向こう、もう一つの影が揺れた気がした。
そのとき、後ろから足音がした。
「……おい、なんでお前も……こんなとこに」
竜二の声だった。その声は、低く掠れていて、普段の強がりも薄れていた。握りしめているその拳が微かに震えていた。その手には、しわくちゃになった古びた写真。微かに月光に反射して姉の笑顔が覗く。
「……俺も、なんでか足が勝手に……」
竜二の声に戸惑いが滲んでいた。だが、それでも千鶴の背中を支えるように近づいてくる。喧嘩っ早く、口の悪い彼の瞳に、いまはただ「何かから守ろう」とする決意だけがあった。
《幸福度、計測中……幸福度低き者は淘汰対象……》
耳の奥に突き刺さるような、鬼システムの声。電子音に似た冷たさの中に、どこか人間の声が混じる。不気味なその響きに、千鶴の背筋が凍った。
そして、その場にもうひとりの影が現れた。
「……君たちも……?」
トモヤだった。幸福度ランキング1位を維持する、優等生の彼の頬は、蒼白に血の気を失っている。汗に濡れた額。恐怖に歪んだ顔。いつもの穏やかな微笑みはどこにもなかった。
「来てしまった……俺も……」
震える両手は赤く、擦り剥けた手のひらから血が滲んでいた。
「幸福度なんて……ただの数字だ……でも……消されるんだろ……低いってだけで……!」
トモヤは震える唇を強く噛んだ。自分の声が、どこか遠くの誰かのもののように響いて、余計に怖くなったのだ。制服の袖の先、指先が小刻みに震えている。無意識に手を擦り合わせ、こすりつける。
(落ちない……血が……)
トモヤの心の奥で、3年前の夜、冷たく沈んだあの瞳が脳裏をかすめていた。
三人は無言のまま、互いに理由もわからぬまま、足を進めた。吸い寄せられるように、旧校舎の奥へ。
やがて、あの赤い教室の前に立つ。夜の闇に沈んだ扉は、わずかに開いていた。誰かが中に招いているように。中から漏れた赤い光が、三人の影を長く床に引き伸ばしす。
「……おかしいだろ、こんな夜に……」
竜二の声が震える。だが足は止まらない。千鶴もまた、胸の奥で警鐘が鳴るのを感じながら、抗えぬ力に突き動かされる。
息を潜め、冷たい取っ手に手を伸ばした。手のひらに冷たさが染み入り、心臓が嫌なリズムで脈打つ。
きぃ……と軋む音と共に扉を開けると、空間そのものが沈黙の闇に支配されていた。
そこは暗く、そして――赤かった。壁、床、天井……闇の中に、赤黒い染みが滲んでいる。いや、染みではない。
――血文字だった。
おどろおどろしい筆跡で、壁のあちこちに書かれていた。
「しあわせ」
「救済」
「贖罪」
滲んだ血の線は、まるで泣き叫ぶ人の指で引っかいた跡のようだ。微かな鉄錆の匂いが鼻を刺す。
机の配置、黒板の薄いチョーク跡、そして床に刻まれた血文字のような赤い線。すべてが、あの夜をそのまま閉じ込めていた。
そのとき。
――ガガガ……ッ……
古びたスピーカーが、耳障りなノイズを響かせた。
そして、無機質でありながら、どこか冷たく、憎悪すら感じさせる声が教室に落ちる。
《幸福度低き者は……淘汰対象……幸福配分、再計算中……幸福度の低い個体……選別開始……》
空気が変わった。鬼システムの声が響いた瞬間、赤い教室の中の闇が蠢き始める。教室そのものが、生き物のように呼吸を始めたようだった。
赤い光が、どこからともなくぼんやりと差し、三人の影を長く歪める。
天井裏から這うような音。金属の軋む音。廊下の奥から、赤い光をまとった何かがこちらへ向かってくる。
機械のようでいて、どこか人間に似た輪郭。それは、無数の監視カメラの目が合わさったような頭部を持ち、歪んだ影を引きずりながら、床を滑るように近づいてきた。その身体はかつての教師や生徒の亡骸の残骸を継ぎ接ぎしたかのような歪さを持っていた。
人の形をした、だが顔のない影。無数の目のようなものが、教室のあちこちで瞬き、彼らを見据えている。
「……逃げろ!」
竜二が声を上げた瞬間、壁の血文字がぼた、ぼたと液体となり、滴り落ちた。
その音を合図に三人は廊下へと向かって駆け出した。竜二が千鶴の手を強く引く。しかし教室は歪み、出口は遠ざかっていくように見えた。影の足音が、ぴたりと背後に迫る。竜二が、転びそうになるトモヤを引き寄せ、半ば引きずるようにして走った。
ひどく遠くに感じた廊下へと飛び出す。息が白く燻り、冷気が肺を刺すようだった。
背後で赤い教室の扉が、ぎぎ……バタンっ……とまるで棺の蓋が閉じるような音を立てる。そして、微かな声――機械の囁き。
《次の幸福度低き者を……選別……準備中……》
その声は冷たく、夜の校舎に不気味に反響し、まるで学園そのものが彼らの逃走を嘲笑しているかのようだった。
千鶴は振り返らなかった。だが背中に、あの目の感触――血の涙を流す、無数の目が、今もじっと見つめているのを感じていた。
(……これは終わりじゃない……始まり……)
赤い光が後方で激しく明滅し、鬼システムの追跡が始まった。壁の監視カメラが次々と生き物のように首を動かし、目で捉え、逃げる影を追う。
千鶴は必死に走りながら、頭の奥であの懐中時計の微かな音が響く。午前二時四十三分。止まった時が、今また動き出そうとしている――いや、悪夢の続きを告げているのだ。
(あの夜と同じ……時間が……狂う……)
床が微かに沈む。足音の合間に、金属が引きずる音が追ってくる。どこからともなく、鬼システムの声が響た。
《幸福とは、均質なるもの……幸福とは、管理されるもの……幸福度、適正化処理を開始……》
その声に、千鶴の脳裏に疑念が横切る。
(幸福度……あれは、人を選別するための数値だった……最初から、救うためのものじゃない……)
千鶴、竜二、トモヤ――三人の足音が、薄暗い廊下に響き渡る。その音は、どこか頼りなく、まるで深い闇に吸い込まれていくかのようだった。
だが、足音は決して三人だけのものではなかった。
――コツ、コツ、コツ……
廊下の奥、見えない闇の中から、一定のリズムで追いすがるような足音が響いてくる。まるで、目には見えぬ何者かが、獲物を追う獣のように、彼らの背後に迫っているのだ。
窓の外に見えるはずの中庭が、どの廊下でも同じ角度に現れる。まるで同じ場所を何度も歩かされているような錯覚に、心臓が早鐘を打った。
「こ、こっちだ……! はやく!」
竜二が声を張るが、息は乱れ、声も震えていた。彼の手の中、汗でしっとりと濡れた古びた写真が、服のポケットの中でかすかに擦れる音を立てた。
竜二が歯を食いしばり、壁に手をつきながら角を曲がった。その指先が冷たい壁に触れるたび、ぬめりとした何かの感触が伝わり、竜二の心臓はさらに高鳴った。
月光が割れた窓ガラスからわずかに差し込み、廊下に細い光の帯を落とす。その光が揺らぎ、影が歪んだ輪郭を作る。
廊下の奥に、剥げかけた【第二理科準備室】と書かれたプレートが見えた。逃げたはずの方角とは逆……どこで曲がり間違えたのか、汗が背筋を伝った。
千鶴はふと、目の端でそれを見た。
(……影が……私たちの形じゃない……)
それは人の輪郭に似ていたが、頭部の位置にぽっかりと空洞があり、その中で何かがうごめいていた。
ぞくりと背筋を冷たいものが走り、足が思わずもつれそうになる。
千鶴の胸元では、止まったはずの懐中時計が微かに――確かに、秒針のような音を響かせている。午前二時四十三分。その瞬間が、今も夜の学園のどこかで止まったまま、時間の狭間にあるかのようだった。
(あの夜と……同じ匂い……)
千鶴の鼻をかすめたのは、鉄のような匂い。血の匂い。記憶の奥底に沈んでいたあの夜の断片が、暗闇とともにゆっくりと浮かび上がる。
……血文字。悲鳴。崩れ落ちる友の影。
なぜ生き残ったのか、なぜあのとき、選ばれたはずの自分だけが、いまだに【選ばれていない】のか――その答えが、すぐそこまで来ている気がした。
トモヤは額に脂汗を浮かべ、震える唇を噛んでいた。
(幸福度、幸福度……1位だったはずだ……俺は選別されるはずない……!)
心の中で、幸福度という数字を必死に唱え、逃げる理由を自分に言い聞かせていた。だが――心の奥底で、鬼システムの声がまだ耳に残っている。
《幸福度 再計測中……》
《千鶴 幸福度:0.02》
《竜二 幸福度:0.10》
《トモヤ 幸福度:0.05》
《幸福度……低き者は……淘汰対象……》
《選別対象 追跡開始》
あの無機質な声が、まるで自分の存在そのものを否定しているようだった。
――――――――――
そのころ、旧校舎の監視室にいた一人の教師、三上は、モニター越しに旧校舎を見つめていた。鬼システム管理官としての義務を果たす中、彼の背筋を冷たい悪寒が走る。監視カメラの映像の片隅に、一瞬だけ奇妙な影が映ったように見えた。
三上はモニターに顔を近づけ、映像を巻き戻した。だが、そこにはただ揺れる木の影が映るばかりだった。心臓の鼓動が速まる。旧校舎に近づくにつれ、鬼システムに関わった者たちが姿を消すという噂が脳裏をよぎる。彼自身も最近、同僚の姿が次々と見えなくなっていくのを目の当たりにしていた。
モニターには、赤外線カメラの映像が揺れて映っていた。暗闇の中、三つの熱反応が、赤い教室から逃げ出していく。
「……まただ……」
三上の喉が乾く。唇がひび割れ、無意識に舌で湿らせた。
(今夜も、鬼が目覚めた……いや、鬼システムが……)
そしてモニターの端。誰もいないはずの廊下の奥。ぼんやりと人影のような熱反応が浮かび、ゆっくりと三人を追っていた。
人間のようでいて、どこか違う。頭部の中心が空洞のように抜け、周囲が淡く光のようにゆらめいている。
(……もう止められないのか……)
背後に、何かの視線を感じた。振り返るが、誰もいない。冷たい汗が頬を伝い落ちていく。
「これは……本当に、幸福の選別なのか……?」
三上の心の奥底では、今までつかえていた違和感が、もやもやとくすぶり始めていた。
その瞬間、監視カメラの一台が、バチッと音を立ててノイズに包まれる。画面の奥から、赤い無数の目が、こちらを見返していた気がした。
「……監視されているのか?」
誰もいない監視室。けれど、確かに冷たい視線があった。
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