第一幕【招かれるは静かな夜】
第一章 転校生と幸福の檻
『夜は静かに、誰かの囁きを運ぶ。
幸福の数を測るたび、
笑う声に隠れるは、どこかに消えた泣いた声。
ひとり、またひとりと、消えていく』
――――――――――
夜の帳がまだ学園を包み、朝の光はその輪郭を照らすことを拒んでいた。
赤錆びた鉄門が、春の風に軋む音を立てる。その門の向こうにそびえるのは、山の中に孤立した全寮制の学園――無明学園。その名を口にするだけで、冷たい鉄の味が舌に広がる気がする。
灰色の雲に覆われた空の下、巨大な時計塔が校舎の奥に静かに佇んでいる。時計の針は、錆びついたまま午後十一時を指して動かない。まるでこの学園の時が、あの夜を最後に止まってしまったかのようだった。
「……帰ってきちゃった」
千鶴は独り言のように呟いた。長い坂道を登り切り、学園の正門の前に立つ。目の前の鉄柵は、まるで「逃げるな」と告げる檻のようだ。
千鶴は肌の奥に冷たいものを感じた。春とは思えない、底冷えする風が制服の袖口から忍び込み、心臓を締めつける。
千鶴は新しい制服の袖口を指でそっとなぞる。防犯カメラと監視ドローンが上空を旋回し、少女の姿を無機質な眼で見下ろしていた。黒いコートの裾が冷たい風に翻り、胸元に隠していた小さな懐中時計がカチリと音を立てる。
その懐中時計の針は、午前二時四十三分で止まっていた。三年前、あの「赤い教室」の惨劇の夜。親友が命を絶った瞬間に時を止めた、千鶴の大切な形見だった。
かすかな風が吹くたび、古びた門の蝶番が軋む。その音が耳の奥をざわめかせ、記憶の底の微かな声を揺り起こした。
(やめて……やめて、そんな目で見ないで……)
誰の声だったのか。自分のものか、あの夜、赤い床に倒れた友の声だったのか、もう定かではない。ただ、凍てついた心の奥で、時計の針が止まったままの音が響いていた。
千鶴の瞳が校舎を見上げた。冷たい朝靄の中に、その巨体が不気味に沈黙していた。
窓ガラスはひび割れ、割れたガラス片が微かに朝の気配を跳ね返している。
旧校舎――誰も寄りつかないはずのその建物の中から、かすかな振動音が届く。
「幸福度数値化、起動確認……幸福配分システム正常作動中」
機械音声。無感情で無慈悲な音。まるで人の心など初めから存在しないと言外に告げるように。千鶴はその音を聞くたび、胸の奥が締め付けられるような不快感に襲われた。
(幸福って、こんな風に数値で測れるものなの……?)
懐中時計にそっと手を伸ばす。冷たい金属の感触。止まった時刻。午前二時四十三分。
――あの夜、すべてが終わったはずの時間。
しかし、なぜかここに戻ってきた。なぜ、学園の門を自分の手で開け、足を踏み入れようとしているのか。
「……怖くない、わけがない」
誰にともなく、千鶴は呟いた。
だが、進むしかない。
千鶴は一歩、また一歩と校門をくぐった。足元の砂利が、やけに大きな音を立てる。まるでこの静寂を破ったことを責めるかのように。
周囲の空気は重く、湿っていた。まだ朝だというのに、まるで夕暮れ時のような陰鬱な匂いが漂っている。
どこからともなく、微かな空気のざわめきが耳元をかすめた。赤い教室の都市伝説。幸福配分システムの闇。旧校舎で消えた生徒の話。
「赤い教室、知ってる?あれってさ、旧校舎の3階にあるんだよ。深夜、誰もいないはずの時間に窓の奥で赤い光がチカチカしてるって……」
「昨日さ、見たやつがいるって。そいつ今朝から学校来てないんだって。」
「幸福度が低いやつから消えてくんだろ?あの教室に呼ばれてさ……」
千鶴の耳の奥で、遠い友の声が蘇った気がした。
『しあわせ……になれたの……?』
――――――――――
「……ようこそ、無明学園へ」
背後から声がした。千鶴は身をこわばらせ、振り返る。そこには、無表情の教師が立っていた。眼鏡の奥の瞳は笑っていない。ただ決まりきった台詞を口にする機械のようだった。
「初日ですね。幸福度測定、すぐにです。転校生は特別ですから」
淡々と、しかしどこか歪んだ響きを持つその声。千鶴は無意識に懐中時計に触れた。冷たい。金属の冷たさが、今だけは頼もしかった。
昇降口に並んだ靴箱、その上に据え付けられた監視カメラ。レンズの奥に、無表情の「幸福監視者」が潜んでいるように感じる。
生徒たちは廊下で作り笑いを浮かべ、互いに『幸福の演技』をする。口角だけが上がった不自然な笑み。心の奥の不安を隠すように、乾いた笑い声。
千鶴の目は、無意識にその嘘を見抜いていた。幸福度が、AIの目に映る【虚飾】でしかないことを、肌で知っている。
けれど、彼女自身の表情は無だった。いや、笑うことをどこかに置き忘れてきたのだ。
3年前、あの夜の赤い教室に。
教師に導かれるまま、学園の廊下を進む。廊下の先、クラスの教室前には幸福度ランキングの電子掲示板があった。
幸福度。その言葉が、千鶴の背筋にまたも冷たいものを走らせた。
幸福配分システム、通称【鬼システム】
無明学園が数年前から導入した、生徒管理の名の下に幸福度を数値化し、ランキング化するという異様なシステムだった。
笑顔の数、他者への貢献度、SNSでの好感度、教師への態度……。それらがAIにより監視され、集計される。数値の低い者は「是正指導」を受け、やがて……消えていく。生徒の間では密かに、幸福度を下げないための「作り笑い」の練習法まで囁かれていた。
「1位:80.6」「2位:78.9」「最下位:32.1」
電光掲示が光を放ち、暗闇に赤い数字が浮かび上がる。その数字の羅列が、まるで血で書かれた呪詛のように見え、目に焼きついて離れない。
数値化される幸福。誰も本当の気持ちを口にできない。作られた微笑みだけが、ランキングを決める。
幸福度が低ければ、【指導】が待っている。そして、ある日突然、姿を消す者もいる。
(これが……私たちの【価値】なの……?)
教室のドアを開けた瞬間、視線が一斉に千鶴を射抜いた。
――笑顔。
それは確かに笑顔のはずだった。だが、どれも張り付いたような、ひび割れた仮面のような笑みだった。
心が凍りつく。こんな笑顔は、幸福なんかじゃない。恐怖に取り憑かれた人間の作り笑いだ。
「転校生か……」
「幸福度、何位になるかな……」
「すぐ下がったら……なぁ」
着席した瞬間、クラスメイトたちの目が一斉に逸れた。だが、好奇の色と恐怖の色が消えたわけではない。誰も声をかけようとしない。
教室の隅で、くぐもった声が交わされ、耳に刺さる。千鶴は机に向かいながらも、微かに震える指を膝の上で必死に押さえつけた。
チャイムが鳴り終わっても、教室は不気味な静けさに包まれていた。他の生徒たちは幸福度の順位表を気にしながらも、笑顔を貼り付けたまま足早に帰っていく。
廊下の向こうで誰かの足音が急ぎ足になるのが聞こえた。
千鶴が割り当てられたのは、本館の2階、2年B組の教室。だが、その位置は奇妙だった。教室の窓から、ちょうど旧校舎が見える。黒ずんだ外壁、ひび割れた窓ガラス。あの【赤い教室】があると噂される校舎の影が、いつも視界の隅にあった。
千鶴はしばらく席に残っていた。窓の外、夕闇に沈む学園の影が濃くなる。
旧校舎の黒い輪郭。そこから……何かが、こちらを見ている気がする。
心臓が、どくりと重く鳴る。
(あの旧校舎……赤い教室……)
その瞬間、耳の奥でささやく声がした。
『──しあわせ……しあわせ、になろうね……』
誰の声? 懐かしい、けれど思い出せない声。冷たい汗が背筋を伝う。
千鶴は目を閉じ、深く息を吸った。
(私は、見届けなきゃ……この学園の、そしてあの夜の……真実を)
――――――――――
「幸福度測定、開始します」
鉄門の上部に設置された機械音声が告げる。スキャナの赤い光線が千鶴の額をなぞり、無数のセンサーが微細な表情の動きや体温、脈拍を読み取る。
数秒後、小さな表示板に数字が浮かんだ。
幸福度:32%
千鶴は微かに口の端を歪めた。笑顔が幸福の証とされるこの学園で、彼女の無表情はすでに「不良品」の烙印を押されていた。
――――――――――
「千鶴さんですね」
職員がひとり、待ち構えていた。背広姿の中年男で、胸元の幸福度バッジが【87%】と光っている。張り付いた笑みが、逆に不気味だった。
「手続きはすでに完了しています。本日から寮209号室があなたの部屋です。幸福度向上の努力を怠らないように」
冷たい言葉だけを投げて、職員は千鶴を促す。
歩き始めると、廊下の壁にデジタルサイネージの光が踊った。幸福度ランキングだ。
上位の生徒たちは満面の笑みを写真に収められ、幸福度の数値とともに誇らしげに映っていた。
だが、下位になるにつれ写真の顔が消え、数字の横に赤い点滅ランプが灯る。赤い色で示された【危険ライン】の中に、千鶴の名前も入っていた。
【淘汰対象】
千鶴の胸に、冷たいものが広がる。
「……また、同じことを繰り返すの?」
心の中で問いかけても、答える声はどこにもなかった。
不意に視線を感じて立ち止まった。突き当たりの窓際に、一人の生徒がいた。制服の襟元は乱れ、髪はボサボサ、靴は泥に汚れている。睨みつけるような目の奥に、疲れ切った光が宿っていた。
竜二。問題児として有名で、幸福度ランキングには名前すら載っていない。千鶴の記憶の奥にある、懐かしい顔だった。
竜二は千鶴に視線を送ると、鼻で笑い、踵を返して廊下の奥に消えていった。
――――――――
寮の部屋は、簡素そのものだった。白い壁、金属の机、シーツの新しい匂いがかすかに残るベッド。
荷物は少ない。手荷物のリュックと、あの懐中時計だけだった。
窓から見えるのは、赤黒く錆びた時計塔。止まったままの針が、暗い空に溶けていた。
「三年……経ったんだ」
千鶴は窓ガラスに映る自分を見つめた。表情は硬く、笑顔の作り方さえ忘れてしまったようだった。
不意にドアの外で足音がした。廊下を歩く生徒たちの笑い声が、耳に届く。
だが、それはどこか空虚で、不自然だった。幸福度を維持するための、作り物の笑い声。千鶴にはそれが、無理やり引きつった顔の奥に潜む恐怖の声に聞こえた。
夜。寮の窓から、千鶴はそっと学園を見下ろす。旧校舎の窓に、わずかに赤い光が灯った気がした。
(誰かが中にいる……?)
風に乗り、遠くで聞こえる足音。機械音のような、けれど湿った足音。
「幸福度低き者は……淘汰対象……」
耳鳴りのような声が微かに響いた。
千鶴の手は、再び懐中時計に伸びる。小さな、銀の懐中時計。事件の夜、親友の手から渡された最後の贈り物。
――午前二時四十三分で止まったその針は、何を告げようとしているのか。
その時刻に何があったのか。千鶴には思い出せない。血文字の断片と、友の涙の笑顔だけが、夢の中で繰り返される。
闇の向こう、赤い教室の呪いが今も消えていないことを、時計の冷たさが告げていた。
『……たすけて、ちづる……』
耳元で囁く声に、千鶴はそっと目を伏せた。
(私は……また、あの夜に引き戻される……)
闇が静かに、千鶴の心に忍び寄った。
その夜。千鶴は夢を見た。いや、夢というより記憶の断片だった。
薄暗い教室。赤い光に染まった床。血のような文字が壁に浮かぶ。
「しあわせ」「贖罪」「救済」……。
嗚咽と笑い声が入り混じる、不気味な音の渦。誰かが泣いていた。誰かが笑っていた。親友の声が聞こえた気がした。
『千鶴、約束だよ……私たち、ずっと一緒だよ……』
『──千鶴……どうして……たすけ……』
(誰……?)
闇の奥から伸びる冷たい手が、千鶴の腕を掴む。その瞬間、胸の奥が締めつけられ、息ができなくなるほどの恐怖が走った。
その声は風に消え、視界が血の赤に染まった瞬間、ぱちん、と目を覚ました。
寮の部屋の時計は午前二時四十三分を指している。まるであの夜の時刻が、再び彼女を呪縛したかのようだと、冷たい汗が背中を流れていた。
――――――――――
教師たちの間で密かに交わされる会話があった。前夜、旧校舎を映した監視カメラに【何か】が映ったのだ。
「おい、これ……何だ……? あの影、人か?」
「いや……これは……」
画面には、暗い廊下の奥に、ゆらりと揺れる人影のようなものがあった。しかし、それは光の加減では説明できない。
明らかに形が不自然で、異様なほど長い手足、そして歪んだ笑顔のような白い輪郭。
急に、視界の隅が明るくなる。
……ありえないはずの明かり。
旧校舎の2階、例の【赤い教室】と呼ばれる部屋の灯りが、微かに点っている。誰もいないはずだ。鍵も閉め、電源も落としてあるのに。
――画面の奥。窓際に、白い何かが立っていた。
静止画のように、ただ、じっと……こちらを見ていた。
そして……モニターの映像が、一瞬ノイズにまみれ、次の瞬間、灯りは消えていた。
「……あの赤い教室の、また……」
年配の教師が顔色を失い、呟く。かつて惨劇を知る者の恐怖は、今も消えていない。
――――――――――
その日、学園に広がる噂は奇妙だった。
「夜、旧校舎の窓に赤い光が灯った」
「誰もいない教室から声がした」
誰もが知っているのに、決して口に出したがらない赤い教室の話題が、薄気味悪い笑いと共に囁かれている。
さらに、幸福度ランキングの掲示板に変化があった。最下位だったある生徒の名前が消えていたのだ。
「転校したんだろ」
「いや、密かに退学させられた」
「赤い教室に呼ばれたら……戻れない」
囁き合う生徒たちの声は、恐怖と好奇心の入り混じったものだった。
千鶴はその数字の空白に、背筋を冷たいものが這うのを感じた。幸福度という無機質な数字の羅列の裏に、見えない死の選別が潜んでいる。
(私は……また、あの夜の渦に巻き込まれていくの?)
廊下の向こうで、男子生徒が大げさに語っている。見栄を張りたいのだろう。声が妙に大きい。
「知ってるか? 夜の監視カメラに映ってたんだ。旧校舎の赤い教室の窓に……顔がさ。血だらけで、にやにや笑ってる女の顔が……!」
「マジで? おまえ、盛ってんだろ」
「いや、俺、映像見た先輩から聞いたんだって! で、次の日その先輩……休んでる」
別の女子生徒が、囁き声で加わる。
「赤い教室って、本当にあるんだって。私のいとこ、夜に肝試しで旧校舎入ったらさ……机の上に、首吊った生徒の写真がずらっと並んでたって……」
笑い混じりの噂話が、嘘か本当かわからない恐怖を形作っていった。
――――――――――
放課後。千鶴は一人、時計塔の裏手に立っていた。赤い教室のあったあの旧校舎。草が伸び、朽ちた鉄扉が半ば倒れかかっている。
「お前……こんなとこに何しに来た」
竜二の声が背後からした。千鶴は振り返る。
「……確かめたかっただけ」
「何をだよ」
「……あの夜、ここで何が起きたのか」
竜二はしばらく黙って千鶴を見つめた。そして懐から古びた写真を取り出す。そこには、姉と幼い竜二、そして幼い千鶴が並んで笑っていた。
「俺たち、あの頃はよかったよな」
竜二の声はわずかに震えていた。
「けど、もう戻れねぇ」
そのとき、夜風が二人の間を吹き抜けた。時計塔の針がわずかに軋む音がした気がした。
夜、寮に戻ると、廊下の奥に人影があった。掃除婦のお松だった。白髪の老婆は、古いモップを手に黙々と床を磨いている。
「……赤い教室には、気をつけなされ」
唐突にお松が呟いた。
「赤い夜は、また始まる……鬼が、目を覚ますんじゃ」
千鶴は言葉を失った。お松の声はどこか、この世のものではない響きを持っていた。
遠く、時計塔の鐘が一度だけ、鈍く鳴った。
寮の部屋で、千鶴は窓の外の闇を見ていた。止まった針の奥に、あの夜の断片がちらつく。
月の光に照らされた旧校舎の輪郭。その中に、3年前と変わらぬ赤い影がある気がした。
時計の音はしない。午前2時43分で止まったままの、あの懐中時計。胸元でそれを強く握ると、千鶴はそっと笑みを浮かべる。鏡に映る自分の顔は、笑っていなかった。どこかの遠い誰かが、笑っている気がしただけだった。
「シアワセって、何だろうね……」
独り言だけが、夜の闇に吸い込まれていった。
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