第5話 名前教えてもらってもいいですか?
次の日も僕は牛丼屋にいた。
さすがに今日はやめようと思っていた。
連日通うのは不自然だし、なにより「期待してる」と思われたら、どうしようもなく恥ずかしい。
でも、昼ごろから雨が降り始めて、気温が急に下がった。
そうなると、温かい汁物とごはんが食べたくなるのは人間の性ってやつで。仕方なく、本当仕方なく。
言い訳はたくさんある。
ただ、会いたかっただけである。
「いらっしゃいませっ!」
今日は、はっきりとした声だった。
昨日よりも、ずっと元気な響き。ツインテールも、ちゃんと揺れていた。
「……並盛と味噌汁で」
券売機でいつも通りのボタンを押して、食券を渡す。
彼女は僕を見て、一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐにふっと笑った。
「今日も、来てくれてありがとうございます」
その一言に胸がきゅっとなる。これが恋……。
「……はい」
短く返すのが精一杯だった。
彼女の手元に迷いはなかった。
スムーズにトレーに並盛と味噌汁を乗せ、カウンター越しに差し出してくる。
「……チーズ、どうします?」
その言葉に、僕は少しだけ口角が上がった。
昨日のことをちゃんと覚えててくれていたのだ。
ニヤけても仕方ないだろう。
「今日は……普通で、大丈夫です」
「そっか。了解ですっ」
言葉のやりとりが昨日よりスムーズだった。
彼女の顔には、昨日のような曇りがない。ちょっとした余裕が戻ってきているのがわかる。
それが――すごく、嬉しかった。
テーブルについて、箸を割る。
並盛。味噌汁。昨日とほとんど同じはずなのに少しだけ味が違って感じた。
静かに食べて、静かに箸を置く。
完食したトレーを持って、レジ横へ向かうと、彼女がすっと立ち上がった。
「今日の牛丼、どうでした?」
「……美味しかったです。あいかわらず」
「よかった~。でも、昨日ほどチーズは乗ってないですよ?」
「今日は、このくらいでちょうどよかったので」
そう言うと、彼女はふっと笑った。
心からの笑顔というより、どこか安心したような、小さな微笑みだった。
「お兄さんって、けっこう優しいですよね」
「えっ……」
突然の言葉にのどの奥が詰まる。
それでも、彼女は続けた。
「昨日のこと、普通なら怒ってもおかしくなかったのに……あたし、すごく救われました」
「……そんな」
「ほんとですよ。ああいう一言で、救われることってあるんです。思ってる以上に」
彼女の言葉がまっすぐに胸に入ってきた。
「だから……」
彼女がほんの少し、目線を下げる。
「名前、教えてもらってもいいですか?」
その瞬間、僕の脳が止まった。
音がすっと引いていくような、奇妙な静寂の中で――僕は、たしかに息をのんでいた。
「……え?」
「だって、毎日『お兄さん』って呼ぶのも、ちょっと変かなって思って」
彼女は、ほんのり赤くなった頬を片手で隠す。
名前。
僕の、名前。
それを、彼女が知りたいと言っている。
心臓の音がうるさい。声がうまく出ない。
でも、これを逃せばたぶん一生後悔すると思った。
「……なおや、です」
なんとか、しぼり出すように言った。
「なおや……くん?」
「……うん」
「ふふ。ありがとう、なおやくん」
彼女はそう言って、目を細めた。
名前で呼ばれるなんて、どれくらいぶりだろう。
誰かに認識されるのは久しぶりだ。なんなら家族にすら、僕の名前は呼ばれない。大抵、『おい』とか『あれ取ってきて』とかしか言われないのに。
「じゃあ、私は……牛味ちゃんでいいですよ」
「えっ」
「えへへ、冗談ですっ。澪っていいます。なおやくんって呼ぶ私が苗字で呼ぶのは変ですよね~」
「……澪ちゃん」
声に出して呼んでしまった。
呼んでから、しまったと思った。
そんな距離感で呼んでいいのか、わからなかった。
けど。
「うん。澪ちゃんで、いいですよ」
彼女は、まるでそれが当然みたいに笑った。
――たぶん、僕は明日も牛丼を食べに来てしまう。
だけど、もう理由はごまかさない。
僕はただ、彼女に会いたいんだ。
そんな気持ちを胸に、僕はあたたかいお茶を買って帰った。
某チェーン店の牛味ちゃんに恋をした。肉厚な君を食べるために僕は牛丼を食べ続けた。 空落ち下界 @mahuyuhuyu
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