第4話 落ち込みとチーズの間に

次の日も、僕は牛丼屋にいた。


いや、そんなつもりじゃなかった。本当は今日は、コンビニのサンドイッチで済まそうと思ってた。

でも気づけば足が勝手に、あの赤と黄色の看板を目指していた。まるで磁石だ。


「いらっしゃいませっ!」


今日もいる。ツインテールが揺れている。

厨房の奥、レジの横。それだけで、体の中の何かが少しだけあたたかくなる。


けれど、いつもより声の張りがなかった。ほんのわずかに沈んで聞こえる。気のせいじゃないと思う。


並盛と味噌汁を頼んで、券売機の横に立つ。厨房に注文が通る。

牛味ちゃんがレジに立って、僕のトレーを受け取ろうとする。


そのときだった。


「……っ、あれ……?」


彼女の指先が、一瞬止まった。

トレーに乗せられた牛丼を見て、困ったような顔になる。厨房のほうを振り返って、申し訳なさそうに口を開いた。


「す、すみませんっ……えっと、大盛りじゃなくて、並盛……でしたか?」


「……あ、はい。並で大丈夫です」


「そっか……すみません。厨房に大盛が行っちゃってて……私、ボタン押し間違えたかも……」


視線が下がる。肩が、少しだけ縮こまっていた。


「すぐ並に作り直しますので……!」


「い、いえ、僕、大盛でも……大丈夫、です」


「……でも……!」


牛味ちゃんの顔が、不安そうに揺れている。

目の奥が、沈んでいる。


きっと今日、一日の中で、何度かこういう小さなミスがあったんだと思う。

普段のあの明るい声が少しだけ曇っていたのは、たぶんそのせいだ。


僕は、勇気を出して言った。


「大丈夫です。あの……いつも丁寧にやってるの、見てるので」


「……え?」


「今日、ちょっと調子悪いのかなって……だから、大盛でも気にしないでください。むしろ、得した気分です」


一呼吸ごとに心臓が跳ねた。

こんなにまとまった言葉を彼女に向かって喋ったのは初めてだ。


彼女の瞳が、ゆっくりこちらに向けられる。


「……そう言ってもらえると、助かります」


「……いえ、その……」


「実は、今日ミスばっかりで……自分にがっかりしてたんです」


「……そうなんですか」


「さっきも、味噌汁こぼしちゃって……自分で片付けてたら、先輩にも怒られて……」


言葉の端にほんの少し涙の影があった。

でも、彼女はちゃんと笑っていた。僕を安心させるために無理してでも笑っているのがわかった。


「でも、お兄さんにそう言ってもらえて、ちょっと元気出ました」


「……よかったです」


「ふふ。ほんと、よかった」


その笑顔には、さっきまでの不安や自己嫌悪が、少しだけ薄らいでいた。


「じゃあ、せっかくなので、大盛りのチーズ、たっぷり乗せますね」


「えっ」


「こっそりサービス。今日は特別ってことで」


トレーの上のチーズが、確かにいつもより多い気がする。

店の規則的にはアウトなのかもしれないけど……彼女のその小さな優しさが何より嬉しかった。


「お待たせしました。今日も、ありがとうございますっ」


彼女の声がさっきより少しだけ強くなっていた。


席について、箸を割る。ふわっと立ちのぼる湯気。チーズの香り。きっとこの味は、忘れられない。


 


食べ終わったあと、僕はレジに向かってトレーを返す。牛味ちゃんは今、奥で仕込みをしていた。


会話はできない。


でも、厨房のほうから彼女がちらっとこっちを見て、軽く手を振ってくれた。


僕も小さく手を振り返す。


名前を呼べるほどの距離じゃない。

だけど――こうして少しずつ、彼女と心の距離が近づいていく。


それだけで、明日はまた牛丼が食べたくなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る