第3話 チーズより甘く、紅しょうがより赤

「今日も、来てくれたんですねっ」


牛味ちゃんが笑うたび、僕の中の何かが溶けていく。店内に流れるBGMは、いつものリズム。

券売機の横の張り紙、窓際のちょっと欠けたカーテンレール。全部見慣れているけれど、彼女がそこにいるだけで、違って見える。

いつもの席、厨房に近い端のカウンターに腰を下ろしながら、僕は思わず頬を緩めた。


彼女の笑顔に反応して笑うお客さんもいれば、あからさまに赤面して目を逸らすサラリーマンもいる。気持ちは、わかる。

だけど、僕は彼女と少しでも仲良くなりたい。

そのために通ってるんだ。


「三種のチーズ牛丼、並盛りとお味噌汁ですね」


牛味ちゃんがレジに立って、僕のオーダーを唱える。声が柔らかい。言葉というより音楽みたいだ。


「いつもと同じでいいですか? 

……あ、紅しょうがは、さっきたくさん入れましたから、すぐ取れますよっ」


ツインテールがぴょこんと揺れた。


ほんのり赤いゴムで留められたふたつの束は、今日も左右対称に揺れている。動くたび、ふわふわと風が起きるような気がする。

その下で彼女の身体は……いや、考えるな。チーズのことを考えろ。

とろけるチーズ。あつあつのご飯。

そして、その向こうに澪ちゃんの笑顔。


……あれ、いま自然に「澪ちゃん」って思ったな。まだ、まともに呼んだことないのに脳内で名前呼びが定着してきてる。だめだ。まだ“牛味ちゃん”なんだ。心の中でも、ちゃんと敬意を払わないと。


「ありがとうございます……今日、ちょっと疲れてたんですけど、お兄さんの顔見たら元気出ました」


その言葉に、思考が一瞬止まった。


牛味ちゃんは、にっこりと僕の顔を見ていた。そんな、なんでもないような一言に心臓が跳ね上がる。


「……え? あ、ああ、そ、そうなんだ、そっか、えーっと……」


返事がうまくできなかった。慌てて財布から小銭を取り出して、レジトレーに落とす。カラン、という音が無駄に響いて、余計に焦る。


「ふふっ」


牛味ちゃんが小さく笑った。

ツインテールが柔らかく揺れた。


「ちょっとだけ、話しかけやすいなって思ってて。お兄さん、毎回おなじメニューだし、静かに食べるけど、いつもちゃんとありがとうって言ってくれるから。安心するというか」


僕は、目の前のレジが別の世界に思えてきた。

ここは現実か? 本当に? 彼女が、僕のことを「ちょっと話しかけやすい」って?


これってもしかして、ある種の進展……か?


「い、いや、こちらこそ……いつもありがとうございます、えっと……お疲れさまです」


敬語が混ざって、よくわからない挨拶になった。

しかし、そんな情けない僕の姿を見ても、牛味ちゃんはまた笑った。


「ありがと〜ございますっ。じゃあ、席まで持っていきますね!」


ああ、神。お盆を持つその腕、上半身のシルエット、シャツのボタンにかかる危険なテンション。

同じ空間にいるだけで、摂取カロリーが上がる気がする。主にタンパク質(意味深)とか。


そして、テーブルの前。


「はい、どうぞっ。いつもありがとうございますっ!」


テーブルに置かれたトレー。少し屈むその姿勢に、シャツの胸元がふわっと揺れる。こちらに向けられた満面の笑みは、照明の光を反射して、目が眩むほどだった。


「……いただきます」


僕は言った。


この言葉には、いろんな意味が込められていた。


牛丼をいただくこと。彼女の接客に感謝すること。

そして何より――牛味澪という人の存在に、胸いっぱいになるその気持ちをどうにか言葉にして伝える最もシンプルな挨拶だった。


その日の牛丼は、今までで一番うまかった。


そして、帰り際。


僕が席を立ち、トレーを戻そうとしたとき、厨房の奥から再び彼女の声がした。


「ありがとうございました〜っ! また、お待ちしてますっ!」


その声が、今日一日のすべてを締めくくってくれた。もう、引き返せない。


僕は、牛丼を食べ続ける。彼女のために、いや、彼女に会うために。

今はまだ、名前で呼んでもらえるほど近くはないけど、きっといつか───彼女の名前をちゃんと声に出して呼べる日が来るって、信じてる。

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