第12話 変わってゆく何か

食堂から教室のほうを回り道して校舎を飛び出した晴馬と優悟。二人は校舎の玄関で待っていたチームメイトに事情を話した。


「本当だって...!トイレからドンドンって扉をメチャクチャに叩く音がして...!それで、逃げるのに必死でジュースも置いて来ちゃったんだ!」


あまりにも鬼気迫る様子で説明するあまり、最初は茶化していたチームメイト達もすっかりそれを信じ切っていた。ところが二人が全てを話し終わった時


「でも廊下にペットボトル放置しとく訳にもいかないだろ。ちょっと待っててくれ、俺が取って来る」


と勇敢にも校舎に戻ろうとした者がいた。彼の名は木梨聡太。チームではセンターのポジションを務める、三年生の中で最も身長が高い生徒であり、そしてその体格に合わせるように恐ろしく据わった肝っ玉を持っている。


「行くな木梨!!マジにヤバかったんだぞ!それにもし幽霊じゃなかったとしてもこんな時間にトイレの扉叩くなんてまともな奴じゃ絶対無いって!」


「だいじょぶだいじょぶ。幽霊だろうが不審者だろうが気が触れた生徒だろうが、俺の身長見て躊躇なく襲って来る奴なんていないから」


冗談なのか良く分からない事を言いながら木梨はにやりと笑うと、何の躊躇も無く闇に包まれた校舎へと消えて行った。


そして1分も経たず、木梨は何食わぬ顔でその大きな体に全てのジュースを抱えて戻って来た。


「ほいお待たせ。ゴチなるぜ杉内」


「な、何も無かった...?」


「うん。トイレの中も見てみたけど、電気もついたし水も止まってた。二人を驚かせられたから幽霊も満足して帰ったんじゃね?」


皆にジュースを配りながら木梨は余裕の笑みを浮かべた。何もなかったからと言って晴馬達を嘘つき呼ばわりしないところも含め、本当に同い年の人間とは思えない器の大きさだ。


「お前にはホント敵わないよ、木梨」


だがそんな木梨の態度は、未だにバクバクしている二人の鼓動を幾分か和らげてくれた。




それから最寄り駅に帰り、優悟と別れた晴馬は真っすぐ家に帰って来た。途中今度こそ神社にお礼参りに行こうとも考えたが、昨日からの出来事と、夕暮れ時ということでとても神社に行ける勇気は出なかった。


「ただいま~」


玄関を開け、昨日母が乾燥機を使って乾かしてくれたローファーを脱ぐ。しかし帰宅を告げても、母親からの「おかえりなさい」が聞こえない。


「母さん?ただいま~!」


「あぁおかえりなさい晴。悪いんだけど母さんが良いっていうまで部屋にいてくれる?リビングに絶対入って来ちゃ駄目よ」


幸い二回目のただいまでリビングから母親の声が返って来る。しかしその声はひどく焦っていた。


嫌な予感がする。また何か異常なことが起こっているのか。


「母さん!?」


居ても立っても居られなくなった晴馬はたった今伝えられた言いつけを一瞬にして破り、リビングへと突入した。


「母さんどうしたの!?」


「ちょっと何で入って来るの!?危ないから部屋いってなさい!」


リビングの扉を開けた刹那、凄い剣幕で母親から叱責が飛んできた。その手には丸められた新聞紙と殺虫スプレーが握られている。


「うわ...!」


その持ち物の意味に晴馬は直ぐに気付く。重低音の羽音を立て、大きなスズメバチが彼の頭上を飛び去ったからだ。


「窓開けてたら入って来ちゃったの。母さんがやっつけるから、刺されないように部屋行ってなさい!」


千恵は晴馬に目もくれず、不規則に飛び回るスズメバチに殺虫スプレーをかけようとノズルを引けた腰で構える。ところが


「大丈夫だよ母さん。俺が捕まえる」


「え?」


背後から聞こえた抑揚の無い息子の声に千恵は思わず振り返る。晴馬は瞬き一つせず、縦横無尽に飛び回る蜂の軌道を目で追う。その両目はまるでガラス瓶の底のように無機質で、生気が感じられなかった。


「晴...?」


「おれにまかせて」


晴馬は母を尻目にリビングに入ると臆する無く中空に手を伸ばし、何と素手でスズメバチを掴んだ。羽をつままれたスズメバチは晴馬の指の間でジタバタともがき、太い毒針のついた尻をしきりに動かしている。そして


「晴馬...あんた何してるの?」


晴馬は捕まえたスズメバチを顔の前に持ってくると自身の目をこれでもかと見開き、それを舐めるように見回し始めたのだ。まるで動物が、捕らえた獲物を吟味するかのように。


「晴馬早く逃がしてッ!!」


二重の意味で恐ろしくなった千恵は息子に叫ぶ。


「え。あ、うん。ちょっと待って...」


晴馬はそんな千恵の叫びに生返事で応えるとスタスタと窓際に行き、スズメバチを外に逃がしてやった。羽音が遠くなった瞬間、新聞紙とスプレーを投げ捨てた千恵が駆け寄って来る。


「晴あんた大丈夫!?まさか刺されたりなんかしてないわよね!?」


晴馬の顔を見て、千恵はほっとする。自分を見る息子の目はいつも通りの、父親によく似た優しい瞳に戻っていた。


「う、うん大丈夫...だよ」


千恵に肩を掴まれ、晴馬は母の顔と自分の手とを交互に見比べる。それは蜂に刺されてないことを確かめるのではなく、自分が今した行為が自分でも信じられない、と言った様子だった。


「それにしてもびっくりさせないでよ...。いきなり素手で摘まんだかと思ったらじっくり観察し始めるんだもの。お母さん本当に怖かったんだから」


「ごめんごめん。実は最近虫を観察する動画配信者にはまっててさ。動画の中の人達が触ってるみたいに俺も出来るかなって思っちゃったんだ」


「逃がしてくれたのは助かったけど、そんな危ない真似二度としないで頂戴。でも何事も無くて良かったわ。ご飯もうちょっとでできるから着替えてきなさい」


「うん分かった」


リビングを後にした晴馬は暗い自分の部屋に戻るとそっと扉を閉め、スズメバチを摘まんだ己の手を見つめ始める。


(俺...一体何したんだ...?スズメバチを素手で?そんなのあり得ない...俺にそんなこと、出来る訳が無い)


動画で触る人達を見ていたからスズメバチも臆することなく触れた。今しがた母に告げたこの言葉は、真っ赤な嘘だ。そも晴馬は虫が大の苦手で蜂だろうがカブトムシだろうが素手で触ることなど出来はしない。


あの瞬間の自分は明らかに、自分では無い何かだった。まるで意識を残した状態で身体の操作を別の誰かに乗っ取られたような。そんな感覚だった。


(俺..マジでどうなってるんだ...)


母に呼ばれるまで晴馬は部屋の電気すらつけず、ずっとその場に立ち尽くしていた。

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