第11話 女子トイレへと向かう霊

「うわーッ!!」


その悲鳴が聞こえたのは三時間目が始まって少し経ってからであった。廊下から教室まで届いた、ただ事ではないその声に晴馬達を含めたクラス中の生徒がしん、と一瞬にして静まり返る。


「皆教室から出るなよ」


晴馬達の教室で保健体育を担当していた堂本先生が直ちに異常を察知し、足早に教室を去っていった。他の先生達も同様に動いているようで、廊下からは各教室の扉が開く音が聞こえてくる。


「え。何今の」


「男の声だったな」


「もしかして不審者...?」


先生が消えた教室はたちまちに今の悲鳴に関する話で一杯になる。


「晴馬...大丈夫か?」


皆がそれぞれ憶測を飛ばしている中、優悟は後ろの席に座る晴馬の心配をしていた。彼はまるで親とはぐれた子猫のような、見ているこちらが心細くなる程の不安な顔をしていた。


「やっぱり昨日から何かがおかしい...。優悟、俺本当に...」


「しっかりしろ、晴馬!」


晴馬がその言葉を言い終える前に優悟は彼の机を拳で強く叩いた。その音に驚いた周囲のクラスメイトが一斉にこちらを見たが、優悟はお構いなしに続ける。


「大丈夫だ!今回のはきっと関係無いさ!」


ところがそんな優悟の言葉も虚しく、教室に戻って来た堂本先生から告げられたその事実は、晴馬に更なる恐怖をもたらした。


「用務員の人がトイレで不審者を見かけたそうだ。何でも白い喪服みたいな服を着た女が女子トイレに入って行くのを見たらしい。だが安心しろ。先生達が確かめた時にはそんな人は影も形も無かった。だからとりあえずこのまま授業続けるぞ~」


クラスメイト達の「トイレの花子さんじゃん!」「ちょっと見て見たかった」「馬鹿な事言わないで!普通に怖いんだけど...」といった戯言は、晴馬の耳には殆ど届いていなかった。




「なぁ晴馬!本当に今日は帰れよ!学食だって半分以上残してたじゃないか!部活出来るような状態じゃないって!」


放課後部室で優悟は思い詰めた顔で練習着に着替える晴馬に、今日は部活を休むよう説得を繰り返していた。


「大谷もそこまで鬼じゃ無いし、体調不良って言えば問題ねぇよ...」


「そうはいかない...。体調不良って言って大谷は納得するかもしれないけど先輩達が何て言うか分からないだろ?朝練でもう上野先輩怒らせてるのに、これ以上皆に迷惑かけられないよ...」


「そうかもしれないけどさぁ...」


優悟の説得虚しく、晴馬はバッシュの紐を固く結び練習の準備を完璧に整えてしまった。変なところで融通が効かないのは1年生の時から何も変わっていない。


「本当に無理するなよ?堂本が幽霊出たって言ってた時、お前の顔マジでやばかったぜ?」




学校に幽霊が出た。今日の関央はその話題で持ちきりだった。用務員が見たというそれを目の当たりにしようと男子生徒を中心として、学校中のトイレというトイレに監視網が引かれたが、遂にその姿を捉えた者は現れなかった。その一方で幽霊の姿をカメラに収めようと校則を破ってスマホを持ち出した不届き者達がごまんと捕まったらしいが。


だがそんなイベントで学校中が盛り上がる中、晴馬はずっと暗い顔で教室に引きこもっていた。昼食を食べに食堂へ行った時も彼は終始怯えた様子で周りをキョロキョロと警戒し、注文したカレーも殆ど口をつけず優悟に譲っていたのだ。


ただそんな精神状態でも尚晴馬が部活に出ようとしているのは渚の為...ではなく、ライバル校との練習試合を控え常にピリピリしている顧問と先輩達の毒牙にチームメイトをこれ以上晒す訳にはいかないという責任感故だった。集団責任が生むプレッシャーというのは、ある意味では幽霊なんかよりも余っ程恐ろしい存在である。


「大丈夫だって。それに気分は良くないけど、体の調子自体は凄く良いんだ。幽霊の事も、バスケで汗かいたらきっと忘れられるだろうし」


靴紐を結び終わった晴馬は錆まみれのパイプ椅子から立ち上がり、無理に笑顔を作って見せた。




だが優悟の心配をよそに、晴馬はその日の練習で素晴らしい動きを見せることになる。自分でも理由は分からないがとにかく体が軽く、ドリブルも手に吸い付くように動かせたのだ。先輩達のディフェンスをいとも容易く掻い潜ってレイアップを決めた時は周囲から驚きの声が上がった程だ。


「どうした杉内!絶好調じゃないか!?いいぞいいぞ、高校バスケに向けて順調に進化しているな!」


朝に説教をしたことなど微塵も覚えていないかのように、大谷は好プレーを連発する晴馬を褒めちぎった。その言葉と激しい運動でみなぎったアドレナリンが相まって、練習が終わった時晴馬の頭からは幽霊のことなど完全に消え去っていた。


「今日マジで凄かったな!平先輩からバスケットカウント取ったとか一生自慢出来るだろ!」


「あれは偶々だよ...。でもありがとう。あの感じならスタメンは問題なさそうだ」


練習が終わり制服に着替え終わった後、二人で計8本のペットボトルを抱え、晴馬と優悟は暗い食堂を歩いていた。朝練を遅刻した罰は晴馬が、同じ3年生のチームメイト全員にジュースを驕るという形が取られた。二人が食堂にいるのは学校でそこにしか自販機が無い為だ。


「でも本当、急になんで動き良くなったんだ?練習始まるまであんなに青い顔してたのに」


「俺も分からない。でもさっきも言ったと思うけど、今朝からずっと体が軽くて、頭で考えた動きがそのまま出来る感じなんだ」


「完全にゾーン入ってる奴の発言じゃんそれ。これもやっぱ彼女持ちの成せる技か~。良いな~俺も彼女欲しい~」


普段の晴馬ならここで「馬鹿な事言うなよ」とか至極真っ当なツッコミを入れているところだが、気分が高揚しているせいで


「そうかもな~」


と冗談を言った。


その瞬間、優悟が唐突にぴたりと足を止める。校内は照明がほぼ全て消え、所々ある非常灯の明かりしか灯っていない為、晴馬は優悟が立ち止まった事に直ぐには気付けなかった。


「優悟どうしたん?忘れ物?」


「晴馬...あれ...」


優悟は塞がっている両手の代わりに顎でそれを指し示した。心なしか、声が震えているように聞こえる。


優悟の示した先。それは食堂を出て直ぐのトイレであった。誰かが中にいるのか、水が流れる音が聞こえてくる。特段に、変わった光景では無い。


「え、マジでどしたん?誰かがトイレ使ってるだけでしょ?」


「バカお前...うちの学校のトイレ、人が入ってたら電気ついてなきゃおかしいだろ...それにこの音、どんだけ蛇口捻ってんだよ...」


この学校のトイレは全てセンサー式の照明が導入されており、人がいない時は消灯され、誰かが使用している間のみ点灯するようになっている。にもかかわらず、視線の先のトイレからは光が一切漏れていない。加えて聞こえてくる水音も異様に大きい。洗面台の全ての蛇口を全開にしなければこんな音量は出せないだろう。


「言われてみれば、そうだね...」


それに気付いた瞬間、晴馬の全身に鳥肌が立つ。記憶の彼方に吹っ飛んでいた今日の出来事が、恐怖という波と共に晴馬の脳に流れ戻って来た。


トイレからは相変わらず水が流れる音が聞こえてくる。誰かがそこから出てくる気配も全く感じられない。二人はその場に釘付けになってしまった。


「...食堂戻って、理科室のほう回って校舎出よう。あの前通るのは絶対ヤバい」


「...大賛成」


数十秒の沈黙の後、晴馬はやっとのことで口を開いた。その意見に即賛同した優悟と共に、ゆっくりと踵を返す。が、その瞬間



ドンドンドンドンドンッ!!



トイレの扉を激しく何度も叩くような音が晴馬達の耳を貫いた!


「うわああああ!!!」


理性の糸を引きちぎられた二人は抱えていたジュースをほっぽり出し、無我夢中で食堂へと駆け戻って行った...






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