第7話 直感
練習後。片付けを終えた部員たちが輪になって談笑している。誰かがふざけて笑い声をあげ、別の誰かは今日のプレーを自慢し合っていた。蒼はその輪に入りきれず、少し離れた場所でラケットを握り直した。
(そういえば、長谷部と三輪は、いつのまにか来なくなったな)
いつも蒼に突っかかってくる長谷部と、長谷部の友達で以前殴ってしまった三輪。二人の声がない分、静かで、練習も落ち着いてできるようになった。どこかのびのびとラケットを振れている自分に気づく。
「おい陽翔! お前、今日スマッシュのとき顔やばかったぞ!」と吉岡拓真が茶化す。
「なんだよ、それ! フォーム見てただけだろ!」と陽翔が笑い返すと、周囲も大きな笑いに包まれた。
「はは、でもさ、陽翔が打つとボールが伸びて見えるんだよな」森下大河が感心したように言うと、みんながうんうんと頷く。
そんな賑やかなやり取りの中で、蒼だけが笑顔を作りきれなかった。心の奥に焦りが残っていたのだ。陽翔は笑いの中心にいて、みんなと肩を並べながらも自然体で笑っている。あの余裕、あの成長の速さ――胸の奥にさらに嫉妬が膨らんでいく。
「蒼、どうした? 元気ないな」
陽翔がふいに声をかけてくる。その目は真剣で、からかう気配はなかった。
蒼はラケットを見つめたまま、苦笑いを浮かべる。「いやー全然うまくいかなくて、ちょっとへこんでた」
「ゆっくりでいいよ」
短く、しかし確かな声だった。その一言に救われるような気がして、「……ありがとう」と小さく答えた。けれど胸の中のざらつきは消えなかった。励まされれば励まされるほど、置いていかれる不安が大きくなっていく。
帰り道。陽翔はああ言ってくれたけど、このままじゃだめだ。もっと成長しなければ追いつけない。そう思った蒼は、家に着くや否や情報を集め始めた。
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鞄を放り投げ、机の引き出しから一冊の本を引っ張り出す。「初心者向けソフトテニス入門」。入部前に買ったものの、まともに開いたことはなかった。ページを繰ると「ボレーの基本姿勢」「面の角度」「フットワーク」と太字の見出しが目に入る。指先で紙をなぞりながら、何度も読み返した。図解のイラストでは、モデルがスッと腰を落とし、踏み込み足にしっかり体重を乗せている。その姿は、まるで別世界の人間のように見えた。
さらにスマホを手に取り、YouTubeを検索する。「ソフトテニス ボレー 初心者」。画面に映るのは、全国レベルの選手が丁寧に解説する動画だ。プロのリズム、体重移動、足のステップ。何度も巻き戻し、ノートに走り書きを重ねていく。気づけばページの隅は「面の角度30度」「前に踏み出す」と乱雑な文字で埋まっていた。
リビングから母の声がする。「蒼、ご飯冷めるわよー」
「今行く!」と答えながら、ノートをもう一度見返す。(これを明日、試そう)そう思った瞬間、ようやく胸のもやが少し晴れた。
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翌朝。英語の授業前、蒼は慌てて机を漁った。
(やばい、ワークやってない……!)
提出は今日。顔から血の気が引いたところで、隣の席から声がした。
「蒼、忘れたでしょ」
花音がプリントを差し出してくる。その瞳は少し呆れ顔だ。
「もう、ちゃんとやらなきゃだめだよ」
「……ごめん、助かる」
小声で答えながらも、心の中では土下座したい気分だった。ほんの少し胸が軽くなったのは、彼女の優しさのおかげかもしれない。だが同時に、胸の奥でチクリと痛む感情もあった。俺はテニスで努力を始めたけど、勉強ではまだ甘えている。いつか、その差が自分を苦しめるんじゃないか。そんな予感を抱えたまま、授業が始まった。
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放課後。再びコートに立つ。昨日の自分とは違う、と心に言い聞かせた。風は少し強い。だが、足元の土の感触は昨日よりもしっかりと感じられる。
陽翔が後衛位置からボールを送る。一瞬、昨日ノートに書き込んだ「面の角度30度」「前に踏み出す」「手首固定」という文字が頭に浮かぶ。それに導かれるように体が動いた。右足を踏み出し、ラケットの面を前に出し、角度を意識する。――パァン、と小気味よい音。ボールが潰れて戻り、まるで自分の手の中に一瞬吸い込まれたかのように感じた。ラケットが手の一部となり、掴んだ力を倍にして放った。鋭い弾道でボールは相手コートに突き刺さる。
全身に快感が走った。これでも一応中学生。気持ちよくなる方法は他にいくらでもある。でも、この感触を超える満足感と、そして「まだ足りない」と訴えてくる不満足――それは、このボレーにしかなかった。直感で理解した。俺はこの一球を求めて、ここに立っているのだと。
「お、今のはいいな」
陽翔の声に、胸の奥が熱くなる。もちろん、すべてがうまくいくわけじゃない。十本のうち九本は失敗だ。成功したのは最初の一回だけ。その後は頭で思っても、体が追いつかず、意識と動きがかみ合わなかった。だが、確かに一歩前に進んだ感触がある。何度も繰り返すうちに、体の奥にリズムが刻まれていくようだった。
他の一年生たちも、練習に夢中になっていた。「俺も決めたい!」「今の見たか!」と笑い声が響く。昨日まで遠かった景色が、少しずつ近づいてきている気がした。
汗が額から流れ落ちる。失敗しても、悔しさよりも挑戦したい気持ちが勝っていた。昨日はただ苦しかった練習が、今日は楽しい。たとえ一瞬でも成功を掴めれば、その一球が次の原動力になるのだと知った。
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部活の終わり。顧問の杉本が声を張った。
「来週、北野中と練習試合をすることになった!」
その一言で部員たちはざわめいた。誰かが「マジかよ!」と叫び、別の誰かは「やっと試合か!」と拳を握る。陽翔も口元を引き締めていた。蒼の胸にも緊張が走る。北野中――名前を聞くだけで背筋が伸びる。未知の相手と戦える機会がついに来たのだ。
夕焼けに染まる空の下、蒼はラケットバッグを握り直した。(勝ち負けはまだ分からない。でも――試すときが来た)
その決意は、胸の奥で静かに燃え続けていた。
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