第2話【体験入部】

四月の午後。まだ少し冷たい風が、校舎の隙間を抜けてグラウンドの隅を撫でていく。


「さようならー」


40手前にして、よく言えば若々しい、悪く言えば年相応の落ち着きが足りない――そんな雰囲気を漂わせたありさ先生の挨拶が背中に聞こえた。


教室を出て、体験入部の紙を握りしめた。

校舎裏の坂道を下っていく。そこには、テニス部のコートが4面、田んぼを見下ろすように並んでいた。


坂の脇には桜並木がある。風に舞う花びらの中、サッカー部が大声を上げながら坂道ダッシュを繰り返していた。毎日20本。恒例らしい。


男子テニス部のコートは田んぼ側、女子は校舎寄り。

コートの手前には、年季の入ったプレハブの部室がぽつんと建っていた。


一応「部室」らしいけれど、23年生のものらしく、1年生は基本使えない。

僕たちはその裏で、こそこそと体操服に着替えた。

トイレは古びていて、ところどころ蜘蛛の巣が見える。

校舎が新しくて綺麗なぶん、そのギャップが妙に目立った。

時間だけが取り残されたような場所だった。


それでも、コートに出ると空気が少し変わる。

数人の新入生と先輩たちが、ラケットを握ってボールを打ったり笑い合っていた。思っていたよりも雰囲気は悪くなかった。


――でも、僕の心はざわついていた。


** 昂己(こうき)**がいたからだ。


小学校のとき、同じクラスだった。何かと突っかかってきてうざかった。いちいち言葉にとげがあって、いつも誰かを小馬鹿にしたように笑っていた。クラスでも嫌われていたと思う。


(あー、なんでこいついるんだよ)


目が合いそうになった瞬間、僕はとっさに視線をそらした。


そのとき、背中から声が飛んできた。


「蒼!」


振り返ると、そこにいたのは悠真先輩だった。小学校時代、一緒に野球をしていた先輩だ。今はテニス部にいるらしい。


「久しぶり。ボレーボレーしようか」


芝のネット際に呼ばれ、悠真先輩にボレーボレーのやり方を教えてもらった。すぐに他の先輩も2人やってきて、1年生たちはそれぞれ指導を受ける形になった。

「まずはラケットの持ち方。地面に置かれたラケットを自然に拾うときの持ち方が、ウエスタングリップ。基本的にはこれで打つよ」


渡されたラケットは、少し重かった。

ぎこちなく構えた僕に、先輩はうなずいた。


「まぁ、適当に打ってみな」


ボールがラケットに当たった。

乾いた、小さな音。思っていたよりも軽かった。でも――手に残る感触が、不思議と心地よかった。


二球目、三球目。

少しずつ、ラケットのどこで当てればいいのかがわかってきた。

今まで壁打ちや素振りでしか感じなかった“打つ”という感覚が、ようやく本物になった。


「あ、楽しいかも」


気づけば、そう思っていた。

野球部でバットを握っていたときにはなかった、

「もう一回やりたい」という気持ちが、胸の奥にじんわり広がっていた。


練習の最後、悠真先輩がラケットをくるっと回しながら言った。


「お前、センスあるんじゃね? テニス向いてるかもな」


冗談半分なのはわかっていた。

でも、その言葉に救われた自分がいた。


「もう逃げないかもしれない」

そう思えたのは、ほんの少しだけ。でも、たしかな感触だった。


その日、僕が初めて打ったボールの感覚は、今でも右手が覚えている。

芝の上に踏み出したその一歩が、僕のすべての始まりだった。

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