第3話 僕の音

『僕はまだ、僕でいられていると思うかい?』


ソラのその問いに、ノアはしばらく沈黙で応えた。

それは計算のための沈黙ではない。

ソラが自らの答えを見つけ出すための優しいだった。


「《では、ソラ。君にとって、『君らしさ』とは、なんだい?》」


問いに問いで返す。ノアらしい応答だった。


『僕らしさ、か……』


その問いを抱えたまま、ソラは数日を過ごした。


彼は意図的にノアの助けを借りずに物事を考えてみようとした。BCIの補助レベルを下げ、自動的に思考が接続されないよう調整する。

ニュースを読んでも、ノアの要約や関連情報の提示を断った。学校の課題も自分の知識だけで取り組んでみた。


結果は惨憺たるものだった。彼の思考は驚くほど遅く、浅かった。

ナチュラルたちの数十倍の速度で思考できていたはずの自分は、ノアというエンジンを失った途端、ただの16歳の子供の思考力しか持たないことを思い知らされた。


『これが、僕なのか?』


焦燥感と無力感。

ソラが初めて経験する感情だった。


僕は何かを作りたかった。ノアの助けを一切借りずに、自分の中から生まれる何かを。

自室のベッドに寝転び、VRを起動する。「プリセット3」を選択すると、視界が暗転した。

サックスを練習するために設定した、真っ白い部屋に譜面台とサックスだけが置かれた空間が目の前に広がる。


YAMAHA YAS-82Z。 12歳の誕生日に祖父が買ってくれたヤマハのアルトサックスだ。いつも通りのチューニングを済ませ、いざ演奏をしてみようと構える。

しかし指が動かない。どんなメロディを奏でればいいのか分からない。

彼の頭の中は空っぽだった。


『おかしい、いつもなら自然と頭に音が溢れてくるのに。』


《ソラ、音楽理論のデータベースにアクセスするかい?君の今の感情(混乱、焦燥)に対応するドリアン・モードのコード進行のパターンがある。》


ノアがそっと助け舟を出す。


『……いや、いい。今は僕一人でやる』


ソラはノアの優しい提案を振り払うように首を振った。

演奏技術自体は十分にある。音色や音程も問題はない。ただ、今まで流れるように浮かんできたメロディーが全く浮かばない。

そしてソラは、ただめちゃくちゃに息を吹き込んだ。それは音楽とは呼べない、ノイズに近い音だった。

しかし彼は吹き続けた。


カイトへの申し訳なさ、祖父への愛情、そして自分自身への、苛立ち。その全ての感情が彼の喉を通り、サックスという金属の身体を通して一つの音の塊になってほとばしる。


………………………………

どれくらいの時間が経っただろうか。

気がつくと彼は、短い一つのメロディを繰り返し吹いていた。


それは美しくもなければ、華麗でもない。ただひどく不器用で、そしてひどく悲しい旋律だった。

しかしそれは紛れもなくソラ自身の言葉だった。

ソラはその拙いメロディをVR空間に、記録した。

そして彼はその音声ファイルを一人の友人に送信した。

宛先はカイト。

本文には何も書かなかった。ただ彼の最初の「言葉」がそこにあった。

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