第4話 Neo Royal Roost
その夜、カイトの言葉の棘が抜けきらないまま、ソラは自室のベッドに横たわりVRヘッドセットを装着した。
意識が仮想空間へとダイブする。
行き先は学校の教室ではない。
数ヶ月前からログインしているVRジャズクラブ「Neo Royal Roost」。そこは国籍も年齢も現実の姿も知らない匿名のアバターたちが、ただ純粋に音楽の腕前だけで繋がり、夜な夜なセッションを繰り広げる場所だった。
ソラがログインすると、すでに3人のプレイヤーがステージに上がっていた。きらびやかなドレスを着た金髪碧眼の美しいピアニスト、機械の義手を持つ屈強な髭面男のドラマー、そして猫耳と尻尾の生えた獣人の少女がウッドベースを抱えていた。
ソラは彼らに軽く会釈し、ステージの隅に立った。
おもむろに仮想のケースを開き、中から愛用の楽器を取り出した。ソラが12歳の頃に祖父からプレゼントされたヤマハのアルトサックス、YAS-82Z。現実の楽器の重さやキーの感触、そして経年変化によるラッカーの剥がれまで完璧にシミュレートされた最高級のデジタル・オブジェクトだ。
軽く打ち合わせと音出しを済ませる。仮想空間といえど、チューニングは必要だ。
「そろそろ配信開始しちゃってもいいかな。もう待ちくたびれちゃった。」
猫耳のベーシスト、サキがあくびをしながら急かしている。
「ソラの準備も出来たようだし、そろそろ始めるかね。」
義手で髭をなでながら、フカサワと名乗るドラマーが空中をタップする。
ソラの前に配信開始の許可を求めるウィンドウが現れた。配信開始。
客席に複数のアバターが出現する。皆思い思いの格好だ。見覚えのある顔もいれば、新規の客もいるようだ。戦後のアメリカをイメージしたという薄暗いジャズバーのオブジェクトが一気に賑やかさを増した。
フカサワがスティックでカウントを取る。
「枯葉」。1940年代から100年の時が経った2045年の今でも演奏され続けるスタンダード・ナンバーだ。
ピアニストのクロエによる前奏と最初のテーマが終わり、ソロパートが回ってきた。ソラの意識の中で、ノアが無数の選択肢を提示する。
「《このコード進行に対して美しい響きを持つフレーズはこれだ。チャーリー・パーカー風にいくかい?それとも今日の君はポール・デスモンドかな?》」
ソラはノアが提案するフレーズを組み合わせて演奏を組み立てていく。
彼の指は寸分の狂いもなくキーを動き、サックスのオブジェクトから華麗なメロディが溢れ出た。
ステージの片隅に表示されたコメント欄が高速で流れていく。
「さすがはスカイ」「神プレイ」「よく指動くな」「どうせユーザーなんだろ」「↑ユーザーだからといって演奏技術自体は向上しないぞ」「今日もスコッチが美味い」
しかしソラの心は晴れなかった。
これは僕の音じゃない。ノアの音だ……。
ピアノとベースへとソロが回り、4バースへと展開していく。ソラのソロが回ってきた。
『ノア、少し黙っていてくれ。僕が、やる』
「《…了解した、ソラ》」
彼は目を閉じ、深く息を吸った。
あるのはカイトに言われた言葉の痛み。祖父との断絶の悲しみ。そして、自分が自分でないかもしれないという恐怖。
その全ての混沌とした感情をサックスに叩きつけた。
ピアノのクロエが一瞬だけ目を見張ったのが見えた。
その音は確かに完璧ではなかった。
いくつかの音はわずかに上ずり、リズムは少しよれた。
しかし、そこには技術的な正確さを超えた、何かがあった。ソラのサックスは泣き叫び、問いかけていた。フラジオが響き渡り、高速のパッセージが刺すような感情を伝えてくる。
ソロが終わり、テーマへと戻る。
演奏が終わり、一瞬の沈黙。
コメント欄の流れも止まっていた。
その静寂を破ったのはサキの一言だった。
「最後のソロ、すごかったね。なんか泣けてきちゃったな」
コメント欄も流れ出している。
「なんだったんだ今の」「演奏中にキャラ変わったか?」「急に下手になった」「BCI切ったのか……?」「感情のこもったいい演奏だった」
ソラは自分の胸が高鳴っているのを感じた。
『なあ、ノア。分かったかもしれない』
ノアはただ静かにソラの言葉を待っていた。
『「僕」とはこの不完全さのことだ。間違え、迷い、それでも何かを表現しようとする、この衝動。それこそが僕なんだ。』
そのソラの思考に、ノアが静かに応答する。
「《……素晴らしい、演奏だったよ、相棒》」
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