第2話 進化の教室
翌朝、ソラはVRヘッドセットを装着し、意識を仮想空間の教室へと飛ばした。
物理的には、日本中、あるいは世界中の自室にいるクラスメイトたちが、同じ規格のアバターとして旧来型の教室の風景の中に集っている。
BCIの登場は、教育のあり方を根底から変えた。AIという最高の家庭教師を得た「ユーザー」たちは、本来ならば学校に通う必要はないはずだ。
しかし、日本においては高等学校までの義務教育としてこのVR教室が存続している。
そこには三つの目的があった。一つは、まだBCIを持たない「ナチュラル」たちへの公教育の機会を保障するため。
もうひとつは、知識の習得は高速だが他者との身体的な交流経験が不足しがちな「ユーザー」たちに十分な社会性を学ばせるため。
そして何より、歴然と存在する両者の圧倒的な差異が深刻な社会の分断に繋がらないよう、幼い頃から同じ空間を共有させ、相互理解を促すためだ。
今日の最初の授業は倫理。テーマはカントの言う「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法についてだった。
老教師が問いを投げかける。
「このカントの言葉は、現代社会においてどのような意味を持つだろうか?」
その瞬間、ソラの意識の中で、ノアが光の速さで思考を展開していた。
「《カントの思想の歴史的背景。功利主義との対比。現代の情報社会における適用の可能性と限界。具体例として、SNSでの誹謗中傷問題を引用。8年前に成立した誹謗中傷対策法を絡めるのもいいかもしれない。関連文献リスト、表示するかい?》」
『いや、大丈夫だよ。骨子だけでいい。』
ソラは手を挙げ、ノアが構築した論理の骨格に自分自身の言葉と感情を乗せて、よどみなく語り始める。彼の言葉は常に明晰で、説得力があった。
しかし、ソラは教室の空気の中に、微かな澱があることにも気づいていた。
クラスの半数、ナチュラルの生徒たちの視線。それは、尊敬ではなく、諦めと、そして、ほんの少しの敵意が混じった、複雑な色をしていた。
最前列に座るナチュラルの生徒たちが、無意識に腕を組んだり、不自然に背筋を伸ばしたりしている。彼らのアバターは平静を装っているが、その微細な動きから焦燥と疎外感が滲み出ていた。
この教室は、彼らにとって、自分たちが決して追いつけないレースを、ただ見せつけられる時間でしかなかったのだ。
授業が終わり、仮想空間の廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「おい、ソラ。」
クラスメイトのカイトだった。
彼は、BCIを持たないナチュラルの一人だ。
「さっきの発表、すごかったな。まるで、大学教授みたいだったぜ。」
その言葉には、棘があった。
「なあ、ソラ。あれは本当にお前の言葉か?それとも、お前の頭の中にいる『ノア』が喋っているのか?」
ソラは言葉に詰まった。カイトの言葉に思うところがないわけではない。
「別に、お前を責めてるわけじゃねえよ」
と、カイトは続けた。
「ただ、時々わからなくなるんだ。俺たちが話しているのは、人間としてのソラなのか、それとも、お前の中にいるあの完璧なAIなのか、ってな。……じゃあな。」
それだけ言うと、カイトはログアウトした。彼のアバターが、静かに光の粒子となって消える。
カイトの言葉の棘の奥に、ソラは別の感情を感じ取っていた。それは単なる嫉妬ではない。数年前まで、放課後一緒に古いビデオゲームで笑い合っていた友人への親しみ。そして、自分では決して届かない場所から語りかける友人への、どうしようもない憧れと絶望。その全てが混じり合った、苦しい色をしていた。
…………………………………………
その夜、ソラは自室で祖父と写る写真立てを眺めていた。
昨日の、あのもどかしい孤独感。それは、自分が祖父の理解を超えてしまったという、ある種の優越感と表裏一体の孤独だった。
しかし、今ソラの胸を満たしているのは、全く別の種類の孤独だった。
『私』とは、一体何なのだろう。この思考は、本当に僕のものなのだろうか。
ノアとの共生は、僕から何を奪い、そして何を与えてくれたのだろう。
彼は内なるパートナーに問いかけた。
『ねえ、ノア。』
「《なんだい、ソラ?》」
『僕は、まだ僕でいられていると思うかい?』
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