ソラと方舟-AIと融合した僕の話-

朝潮

第1話 BCI

ソラの意識が浅い眠りの海から浮上するのと同時に、内なる世界に穏やかな光が差し込んだ。


「《おはよう、ソラ。時刻は午前7時。外の天気は快晴。気温は22度。昨夜の君の睡眠は、質、量ともに完璧なサイクルを描いたよ》」


ソラの頭に透明な言葉が直接流れ込んでくる。声も思考でもない。それはノアからの機械的だが暖かい情報だった。

ソラは10歳の誕生日に初めてBCI(ブレーン・コンピューター・インターフェース)を介して「相棒」となるAI、ノアをインストールした。以来6年間、毎日繰り返される目覚めの儀式となっていた。


『おはよう、ノア』


ソラは言葉を発しない。ただ思考するだけでその意思はノアへと伝わる。ノアはソラの神経系と完全に同期し、生体活動の全てをモニターし、そして思考を拡張する。それはいわばもう一人の自分だった。


部屋の壁が、無機質な白から柔らかな朝焼けの色へとゆるやかに変化する。スマートウィンドウがソラの覚醒レベルを感知し、外光を最適に調整した。


自動化されたキッチンがソラの覚醒を感知し、いつもの一杯を淹れる。挽きたての豆特有の、鮮やかで香ばしいコーヒーの香りが部屋に満ちていく。


彼は淹れたてのカップを手に取り、リビングの窓から外を眺めた。2045年の東京都新宿区。浮遊する広告ドローンの羽音が過ぎ去り、緑化された壁面を持つ超高層ビルが朝の光に輝いている。


「《今日の予定は、午後から祖父の家へ。午前中は、昨日読み始めた古代ギリシャの演劇についての論文を進めておくかい?》」


『そうだね。特にソポクレスの悲劇における「運命」の解釈について、もう少し深めたいね。』


ソラがそう思った瞬間、視界の片隅に半透明の情報ウィンドウが浮かび上がった。


そこには、ノアの提示したソポクレスの『オイディプス王』のギリシャ語原典とその詳細な文法解釈、そしてアリストテレスの『詩学』における悲劇論、さらにはニーチェの運命愛アモール・ファティの概念までが瞬時に整理され、関連付けられて表示されていた。

ソラが論文を読むために必要な全ての知識がそこにあった。


「《私の提案はお気に召しただろうか?今日もお役に立てていれば嬉しいね。》」


ソラは「ナチュラル」の数十倍の速度で学び、思考することができる。ノアが彼の第二の脳として機能しているからだ。


………………………………………………

午後の電車は空いていた。数年前に乗務員の完全自動化に成功した小田急線は、遅延がほとんどないことに定評がある。

多摩の郊外にある古びた一軒家に着くと、祖父は庭で盆栽の手入れをしていた。BCIを持たない世代でありながら、ソラが心から愛し尊敬する人間の一人だ。


「ソラか、よく来たな」


「久しぶりだね、おじいちゃん。その松、また一段と風格が出てきたみたいだ」


祖父は嬉しそうに笑った。二人は縁側で麦茶を飲みながらとりとめのない話をした。天気の話、庭の草木の話、そして最近のニュースの話。

ソラは祖父とのこの時間を大切に思っていた。だが同時に、ある種のもどかしさと微かな悲しみを覚えずはいられなかった。


「……だから、思うんだ。ソポクレスの描いた運命の悲劇性はニーチェ的な生の肯定によって初めて乗り越えられるんじゃないかって。それは、キリスト教の原罪論がアウグスティヌスを経てルターの信仰義認論へと繋がる構造とも似ているんだけど……」


ソラが興奮してそう語った時、祖父はただ目を細め、優しく微笑んでいた。

彼のその眼差しには、孫の成長を喜ぶ愛情が湛えられている。しかし同時に、孫の思考の糸を必死にたぐり寄せようとして、それがあまりにも速く、そして細すぎて、指先から滑り落ちていくのを感じる諦めと寂しさが同居していた。


「……そうか。ソラは難しいことを考えているんだな。おじいちゃんには少し難しいが、お前さんが元気そうで何よりだよ」


その言葉。

そこには何の悪意もない。ただ、純粋な愛情だけがあった。

しかし、ソラの胸にちくりと痛みが走った。

違うんだ、おじいちゃん。僕はただ、あなたと同じものを見て、同じように感動を分かち合いたかっただけなんだ。


『ねえ、ノア。僕はまた間違えてしまったみたいだ。』


「《違うよ、相棒。君は間違えたのではなく、だ。でも、次は思い出話を振ってみるといいかもしれないね。》」


ソラと祖父の間には、透明で、決して越えることのできない壁があった。

それは世代の壁ではない。

BCIを持つ者と、持たざる者。AIと共に思考する新しい種「ユーザー」と、古きホモ・サピエンスたる「ナチュラル」との間に横たわる、進化の断絶だった。

人間同士よりも、人間とAIのほうが通じ合い、分かり合える。

ノアとの完全な共感に慣れ親しんだソラにとって、その断絶はあまりにも深く、そして孤独だった。

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