第14話 池田教授と藤原とサザエさん
ぴっかぴかに磨き上げられた食卓には、湯気を立てる味噌汁に、ふっくらと焼けた鮭、彩り豊かな煮物。池田教授の自宅の食卓は、奥さんの手料理でいっぱいで、研究室の混沌とした匂いとはかけ離れた、温かく優しい香りに満ちていた。
池田教授は上機嫌で茶碗を手に取り、藤原聡美もその隣に座っている。いつものオーバーサイズのパーカーの藤原は、どこか居心地が悪そうにしているが、差し出された箸は迷いなく鮭へと伸びた。
「藤原君、遠慮なく食べるんだよ。妻の手料理は、そこらのインスタントなんかとはわけが違うからね!」
教授はそう言いながら、得意げに奥さんの方を見た。奥さんはにこやかに頷き、藤原の茶碗にご飯をよそってやる。藤原は無表情のまま、咀嚼を続ける。
「この鮭は、脂質とタンパク質のバランスが良好です。消化吸収効率もインスタント麺と比較して劣るとは言えません。ただし、調理に要する時間を考慮すると、コストパフォーマンスは低いと判断されます」
藤原は淡々と分析を述べる。奥さんは苦笑し、池田教授は「また始まったか…」とばかりにため息をついた。
「まあまあ、聡美ちゃん。堅いことは抜きにして、ゆっくり召し上がってね」
奥さんが優しく声をかけると、藤原はかすかに視線を奥さんへ向けた。
食事が進む中、テレビからは「サザエさん」のオープニングテーマが流れてきた。日曜の夜の定番だ。教授はテレビに目をやり、ふと思い出したように藤原に尋ねた。
「そういえば藤原君、君は『サザエさん』という番組を知っているかね? 毎週日曜日の夜に放送されている、日本のごく一般的な家庭を描いたアニメーションなのだが」
藤原は箸を止め、思考する素振りを見せた。
「『サザエさん』ですね。データは認識しております。1969年10月5日放送開始、日本のテレビアニメーション史上、最も長く放送されている作品であり、国民的アニメと位置づけられています。登場人物の行動パターンは定型化されており、視聴者の予測可能性を担保することで、安心感を醸成していると分析されます」
藤原の淀みない説明に、池田教授は苦笑いを浮かべた。
「いやいや、そういうデータ的な話ではなくてだね。例えば、磯野家の面々が織りなす、ささやかな日常の出来事から、何か感じるものはないかね? 例えば、カツオがいたずらをして、サザエに追いかけられるシーンとか…」
教授は、昔を懐かしむように目を細める。
「カツオの行動は、視聴者層である子供の『承認欲求』と『反抗期』の表出として機能しています。サザエ氏による追跡は、社会規範からの逸脱に対する『是正措置』であり、これにより視聴者は倫理観を再認識させられます。しかし、この一連の行動が毎週繰り返されるにもかかわらず、本質的な変化が見られない点は、エンターテイメントにおける『反復の心理効果』の典型例であると分析できます」
藤原は、画面に目を向けながら淡々と答える。まるで、目の前で繰り広げられるアニメを、高度なシミュレーションと捉えているかのようだ。
「ははは…。まあ、確かにその通りではあるがね…。だが、そこに『温かさ』とか『ほのぼの』とした感情は生まれないのかね? 家族が、ただそこにいるだけで感じる、かけがえのない愛情のようなものが…」
池田教授は、煮物を口に運びながら、少し寂しそうに呟いた。奥さんはそっと教授の背中に手を置く。
「『愛情』や『ほのぼの』は、主観的感情であり、数値化が困難です。しかし、これらの感情が、視聴者の幸福度向上に寄与し、結果的に番組の長期的な支持率維持に繋がっている可能性は否定できません。特に、毎回解決される問題と、根本的な構造が変わらない安定性は、現代社会におけるストレス軽減効果があると推測されます」
藤原は、再び箸を動かし始めた。その顔には相変わらず感情らしい感情は浮かんでいない。しかし、彼女の言葉の端々には、分析を通して得られたであろう、微かな「理解」の片鱗が垣間見えた。
「うむ…まあ、君なりに理解しようと努めているのはよく分かったよ」
教授はそう言うと、残りのご飯をかき込んだ。藤原が「コストパフォーマンス」などと言いながらも、普段のカップ麺とは比べ物にならない速さで完食しているのを見て、奥さんは微笑んだ。
食事が終わり、奥さんが食卓を片付け始めた。藤原は、食べ終わった食器を規則正しく重ねて、奥さんに手渡した。
「聡美ちゃん、今日はゆっくりしていけばいいんだよ? また来週も、ご飯を食べに来るといい」
奥さんが呼びかけると、藤原はぴたりと足を止めた。
「来週ですか。私のスケジュールデータには、現時点では食事の予定は含まれておりません。しかし、本日の食事は、栄養摂取効率において一定の満足度が得られました。来週の同時間帯に、同様の食事形態が提供されるのであれば、再考の余地はあります」
藤原はそう言って、わずかに首を傾げた。その表情はやはり無表情のままだったが、池田教授と奥さんは、その言葉の裏に、かすかな、しかし確かな期待を感じ取っていた。
「ははは。もちろんだとも! 来週も美味しいご飯を用意するから、楽しみにしていなさい!」
池田教授は嬉しそうに笑った。その笑顔は、食卓を囲む温かさと、そして藤原という天才の「人間性」が、少しずつ変化していく未来への期待に満ちていた。
池田教授と藤原聡美のメディア論 ノラ @minoru4777
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