第11話 クーラー故障の試練:天才と凡人の夏対策

池田教授の研究室は、今日、蒸し風呂と化していた。壁一面を埋め尽くす分厚い専門書も、インクの染み付いた古びた資料も、まるでその熱気にうなだれているかのようだ。白髪交じりの髪をかきむしる教授自身は、着慣れたツイードのジャケットを脱ぎ捨て、汗で張り付くワイシャツの襟元を何度も緩めている。眉間の皺は、クーラーの故障という現実を前に、もはや深い谷を形成していた。その横で、藤原聡美は、相変わらずオーバーサイズのパーカーとスウェット姿で、扇風機の前で黙々とカップ麺を啜っている。湯気までが暑苦しい。

「藤原君…君は本当に平気なのかね、その格好で」

教授の声は、もはや蚊の鳴くような弱々しさだった。藤原はちらりと教授に視線を向けたが、反応は薄い。彼女の手元にあるのは、間違いなく熱々の「カップヌードル」だ。

「はい。効率的な体温調節と消化促進を両立させる、最適な食事形態であると判断しました。」

藤原は、麺をすすりながら淡々と答える。扇風機の風が、彼女のボサボサの髪を微かに揺らしている。

「だがな、君…こんな猛暑の中で、熱いカップ麺とは…正気の沙汰とは思えんぞ! むしろ汗をかいて、熱中症のリスクを高めているではないかね!」

池田教授は、まるで自分の体調が危機に瀕しているかのように声を荒げた。自身のランチは、妻が愛情込めて作ってくれた、冷やし中華弁当だ。それでも汗が止まらないというのに。

「汗をかくことで、気化熱により体温が効率的に放出されます。体温上昇を感知した脳が、発汗を促す生理学的反応であり、熱中症リスクの増加には繋がりません。むしろ、冷たいものを摂取しすぎると、内臓が冷え、消化機能の低下を招く可能性が示唆されます。」

藤原は、フーフーと麺を冷ましながら、冷静に反論した。ピコピコと鳴る携帯ゲーム機のBGMが、彼女の食事のBGMに同化している。

「馬鹿な! では君は、このクーラーの壊れた研究室で、一体どうすれば快適に過ごせるというのだね!?」

教授は、身振り手振りで熱弁する。藤原は、最後の麺を綺麗に平らげ、慣れた手つきでカップを潰し、ゴミ箱へ。その一連の動作に、一切の無駄がない。

「効率的な夏の過ごし方、ですか。いくつか提案があります。」

藤原は、メガネの位置をずり上げ、教授の方を向いた。その瞳は、灼熱の研究室にも動じない、冷静な光を宿していた。

「まず、教授。そのネクタイと長袖シャツは非効率です。首元を開放し、吸湿性と速乾性に優れた素材の衣類に替えることで、体表面からの放熱効果が最大化されます。私のデータ分析では、これにより体感温度を平均2.3度下げることが可能です。」

池田教授は、汗だくのワイシャツを見下ろした。まさか服装から指摘されるとは。

「次に、扇風機の使い方です。教授は現在、扇風機を身体に直接当てておられますが、これは皮膚表面の乾燥を早め、かえって体力を消耗させます。扇風機は部屋の対角線上に配置し、窓を開放することで、空気の循環効率を最大化すべきです。室内の熱気を効率的に排出することで、体感温度をさらに1.5度下げることが可能になります。」

藤原は、扇風機の向きをすっと変え、窓の方へ向けた。微かに風の流れが変わる。

「そして、食事です。冷たいものを摂取する際は、少量ずつ、時間をかけて行うべきです。大量に一気に摂取すると、胃腸に負担がかかり、体温調節機能の低下を招きます。また、消化に時間のかかる肉類や揚げ物は避け、ビタミンやミネラルが豊富な夏野菜や果物を積極的に摂取することで、脱水症状やミネラル不足を防ぎ、身体の恒常性維持に貢献します。」

教授は、自身の冷やし中華弁当を見下ろした。確かに、鶏肉が入っていた。

「だ、だが、君はカップ麺を食べているではないか!」

池原が突っ込むと、藤原は淡々と答えた。

「カップ麺は、高効率なエネルギー源として炭水化物を供給し、必要な栄養素も最低限含まれています。また、水分補給も同時に行えるため、総合的な効率性は高いと判断されます。」

教授は、もはや反論する気力も失せていた。彼の教え子は、あまりにも合理的すぎた。

「ハァ…まったく、人の心を理解できないロボットめ…。君の言うことは理屈では分かるが、どうにも味気ないな…。」

池田教授の呟きは、虚しく研究室に響き渡る。藤原は、そんな師の葛藤には目もくれず、再びタブレットの画面に視線を戻し、何事か分析を始めた。ピコピコという電子音が、彼の胃の痛みをさらに刺激する。

「それにしても、藤原君。君のそのオーバーサイズのパーカーとスウェットは、そんなに快適なのかね?この暑い中で…。」

池田教授が、最後に残った疑問をぶつけると、藤原はわずかに顔を上げた。

「この素材は、吸湿性と速乾性に優れており、身体から発せられる熱を効率的に外部へ放出します。また、ルーズなシルエットは、身体と衣類との間に空気の層を作り出し、断熱効果を高めます。そして何より…」

藤原は、そこで一度言葉を切った。そして、メガネの奥の瞳が、ほんのわずかに、しかし確実に輝きを帯びた。

「…洗濯の手間が、最小限に抑えられます。そして、どんな服装にも合わせやすく、着る服を選ぶ思考のリソースを大幅に節約できます。」

藤原は、きっぱりと言い放った。池田教授は、がっくりと肩を落とした。彼女にとっての「快適さ」は、あくまで「効率」という指標に集約されるのだ。

(ああ、そうか。彼女にとって、この非効率な暑さの中で、最も効率的なのは「考えない」ことなのか…)

池田教授は、心の中で密かに、そして壮大な「藤原聡美改造計画」の夏バージョンを練り始めるのだった。だが、それが彼女にとって「非効率」な努力であることは、彼だけが知らぬままだった。

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