第10話 合理性と野心の交差点:結婚という「契約」
池田教授の研究室とは別の、都心から少し離れた雑居ビルの一室。窓は黒いカーテンで閉め切られ、薄暗い部屋には無数のパソコンモニターの青白い光だけが揺らめいている。その一角に置かれた簡易なデスクで、藤原聡美はタブレットの画面に表示された複雑な数式を追っていた。その手元には、いつもの携帯ゲーム機ではなく、カフェイン剤の入ったボトルが置かれている。彼女の視線の先には、壁一面に広がるホワイトボード。そこに書き殴られた、ネットワーク図と、無数の情報の断片。桃田和樹の周辺人物、SNSの言及数、資金の流れを示す矢印。
部屋の奥から、影山徹が姿を現した。彼の爬虫類のような細い目は、藤原の作業を静かに、しかし冷徹に観察していた。
「藤原君。今日も精が出ますね。」
影山の声は、驚くほど滑らかで、一切の感情を読ませない。藤原はちらりと彼に目を向けたが、すぐに視線をタブレットに戻した。
「影山さん。桃田氏の資金流入に関する新たなデータを確認しました。彼の政治団体に、これまで報告されていなかった海外からの送金が複数件確認されます。解析が必要です。」
藤原は淡々と報告した。影山は、藤原のデスクの反対側の椅子に静かに腰掛けた。
「ほう。それは興味深い。君の分析は、常に私の期待を上回る。」
影山は、かすかに口角を上げた。その薄い唇には、いつもの冷徹な笑みが浮かんでいる。
「ところで、藤原君。差し支えなければ、一つ、個人的な質問をしてもよろしいでしょうか?」
藤原は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「質問の内容によりますが、データ提供の義務が発生しない範囲であれば対応可能です。」
「単刀直入に伺いますが…君は、結婚というものを、どのように捉えていますか?」
影山の問いに、藤原の表情は微動だにしなかった。しかし、彼女の視線は、一瞬だけホワイトボードに貼られた「家族関係図」のメモへと向けられた。
「結婚、ですか。それは、二者間の法的な契約関係であり、共同生活における資源の効率的配分、およびリスク分散を目的とするものと定義されます。」
藤原の返答は、影山の予想通りだった。彼はさらに問いかける。
「なるほど。では、その『契約』に、君はメリットを見出していますか?」
「現状では、独身であることの優位性が確認されています。時間的コスト、精神的コスト、経済的コスト。いずれの項目においても、結婚がもたらす『純粋なメリット』は、数値化されていません。」
藤原は淡々と答えた。影山の細い目が、彼女をじっと見つめる。
「ふむ…私と、同じ意見のようですね。」
影山はそう呟き、深く息を吐いた。彼の言葉に、藤原の目がわずかに動いた。
「影山さんも…結婚にメリットを見出していない、ということですか?」
「ええ。私にとって、結婚は、目的達成のための非効率な足枷でしかない。私の野望を果たす上で、感情的な繋がりや、家族という『しがらみ』は、すべて排除すべきノーズです。私は、自身の能力を最大限に利用し、社会の『真実』を支配したい。そのために、私利私欲に囚われず、冷徹に、そして合理的に行動する必要があります。結婚は、その妨げとなる。」
影山の言葉には、一切の迷いがなかった。彼の目は、野心と、そして過去に刻まれた屈辱への復讐心に燃えているかのようだ。
「なるほど。目的の差異はありますが、結婚の**『非効率性』**という点では、認識が一致しているようです。しかし、影山さん。人間は時に、非効率な感情に突き動かされるものではないのですか?例えば、愛とか…」
藤原の問いに、影山は冷たい笑みを浮かべた。
「愛、ですか。それは、生物学的な本能に起因する、予測不能な感情的バイアスに過ぎない。そして、そのバイアスこそが、人間の行動を非合理にし、失敗へと導く。私は、そうした非効率なものに、一切の興味はありません。」
影山は、言い切った。彼の言葉は、藤原の感情の介入を許さない合理性を、さらに強固なものにするかのように響いた。
藤原は、再びタブレットに視線を戻した。
「分かりました。私のデータからも、感情が非効率性を招くという傾向は強く示唆されています。影山さんのご意見は、私の研究における重要なデータポイントとして、今後の分析に活用させていただきます。」
影原は、藤原の言葉を聞きながら、満足げに口角を上げた。
「そうですか。それは光栄だ。君のその『冷徹な合理性』は、いずれ私にとって、最も強力な武器となるでしょう。」
影山は立ち上がり、ゆっくりと部屋の奥へと歩いていく。
「桃田氏の資金流入に関する解析、楽しみにしていますよ、藤原君。」
影山の声が、薄暗い部屋に響き渡る。藤原は、その背中を見送りながら、再びタブレットの数式に集中した。彼女の脳内では、結婚という「非効率」な概念が、影山徹という「合理的な野心」を持つ男のデータと結びつき、新たな計算式が構築され始めていた。
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