第9話 結婚を巡る「非効率」な対話
池田教授の研究室は、今日も今日とてインクと古書の匂いに満ちている。壁一面を埋め尽くす分厚い専門書と、インクの染み付いた古びた資料。教授自身、白髪交じりの髪は常にボサボサで、着慣れたツイードのジャケットの肘には擦り切れが見える。いかにも大学教授然としたその風貌とは裏腹に、彼の眉間の皺は今日も一段と深い。その眉間の原因は、研究室の片隅で黙々と携帯ゲーム機を操作する藤原聡美だった。
彼女は実年齢25歳には到底見えない、まるで中学生のような小柄な体躯で、今日もオーバーサイズのパーカーとだらしないスウェット姿だ。彼女のトレードマークである分厚いメガネの奥の瞳は、手元の携帯ゲーム機に釘付けになっている。ピコピコと鳴るレトロゲームのBGMが、研究室の静寂を掻き乱す。
「藤原君」
教授は、意を決したように声をかけた。藤原はちらりと教授に視線を向けたが、反応は薄い。
「君ももう25歳になるだろう。将来について、考えたことはあるかね?」
藤原は、ゲーム画面から目を離さずに淡々と答えた。「はい。老後の生活設計については、既にシミュレーションを完了しております。年間支出、医療費、インフレ率などを考慮し、現在の資産運用を継続すれば、リタイア後の生活水準は確保できると予測されます。」
池田は、ぐっと言葉に詰まった。彼が聞きたいのは、そんな効率的なシシミュレーションの話ではない。
「いや、そういうことではなくてだね。人生の伴侶とか、家族を持つとか、そういうことは…」
藤原は、そこでようやくゲーム機を膝の上に置き、教授の顔を見た。その瞳は、まるで珍しい現象を分析するかのようだ。
「人生の伴侶、ですか。結婚、という概念でしょうか。」
「そうだ! 結婚だよ、結婚! 君ほどの才媛なら、引く手数多だろうに!」
池田は、まるで自分のことのように熱くなった。藤原は、少し首を傾げた。
「結婚は、現状の私の研究活動における効率性を阻害する可能性が高いと判断されます。時間的コスト、精神的コスト、経済的コスト。いずれの項目においても、独身であることの優位性が確認されています。」
「な、なんだと!?」池田は、椅子から転げ落ちそうになった。「結婚が、効率を阻害するだと!? 君は、結婚がもたらす精神的な安定とか、幸福感とか、そういうものは計算に入れないのかね!」
「精神的な安定、幸福感、といった感情的要素は、現時点では明確な数値化が困難です。したがって、リスク評価の対象とはなりません。また、パートナーとの同居は、プライバシーの侵害、生活習慣の差異によるストレス増加のリスクを伴います。これらは、私の作業効率に悪影響を及ぼす可能性が示唆されます。」
藤原は、まるで辞書を引くかのように、よどみなく答える。その声には、一切の感情が感じられない。
「馬鹿な! それではまるで、君の結婚は『デメリットしかない契約』だとでも言いたいのかね!?」
「その認識で概ね問題ありません。現時点では、結婚がもたらす『純粋なメリット』は、発見されておりません。」
藤原はきっぱりと言い放ち、再びゲーム機を手に取った。ピコピコと鳴るBGMが、教授の心臓に突き刺さる。
池田は、がっくりと肩を落とした。彼の優秀な教え子は、あまりにも合理的すぎた。
「あのな、藤原君。結婚というのはな、単なる効率性だけでは測れないものなのだよ。人と分かち合う喜びとか、悲しみを共有するとか、そういう…人間としての情緒というものが…」
「情緒、ですか。感情的要素は、私の研究計画には含まれておりません。」
藤原は、メガネの位置をずり上げながら、再びゲームに没頭する。ピコピコという電子音が、彼の胃の痛みをさらに刺激する。
「だいたいな、藤原君! 君はもう少し、周りに目を向けたまえ! 恋愛とか、結婚とか、そういうのは人間にとって、最も根源的な喜びの一つなのだぞ!」
「根源的、という感情的な表現は、科学的根拠に乏しいかと。生殖行動による種の保存は、効率性の観点から見ても、より最適化された代替手段が存在すると推測されます。」
藤原は、ゲーム画面から目を離さずに、棒読みで答えた。
「代、代替手段だと!? 君は…ロボットか!?」
池田教授の呟きは、虚しく研究室に響き渡る。藤原は、そんな師の葛藤には目もくれず、黙々とゲームを続けた。その姿は、まるで嵐の中で一人だけ傘をさして涼んでいるかのようだ。彼女にとって、池田教授の説教は、ただの「ノイズ」として脳内から自動削除されているに過ぎなかった。
(よし、明日は…無理やりにでも合コンにでも連れ出してやるか。藤原君のデータには載っていない『トキメキ』というやつを、教えてやらねばな…!)
池田教授は、心の中で密かに、そして壮大な「藤原聡美お見合い大作戦」を練り始めるのだった。だが、それが彼女にとって「非効率」な努力であることは、彼だけが知らぬままだった。
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