第8話 有田と黒百合:大谷翔平に何を思う
会社近くの、人の少ないカフェテラス。初夏の生ぬるい風が吹く中、有田はわざとらしいほど派手な香水を振りまき、雫の向かいに座っていた。雫は大きなマスクとサングラスで顔を隠し、身を縮めるようにしてテーブルについている。まだ「黒百合」としての活動は始まったばかりで、世間にはほとんど知られていない時期だ。有田が雫を呼び出したのは、いつものように嫌味を言うためだ。
「あら、小鳥遊さん。こんなところまで呼び出しちゃってごめんなさいね? ほら、会社辞めてから、なんか変な格好してるって噂になってるでしょ? 心配になって、わざわざ来てあげたのよ」
有田の甘ったるい声が、雫の神経を逆撫でする。雫は何も言わず、ただうつむいていた。
「まったく、最近の若い子はすぐ会社辞めちゃうんだから。根性がないっていうか、我慢が足りないっていうか。ま、小鳥遊さんみたいな子は、どこに行っても通用しないわよねぇ」
有田は、わざとらしくため息をついた。その時、カフェの大型モニターから、スポーツニュースの音声が漏れてきた。流れているのは、大谷翔平のホームラン映像だ。
「あー、大谷翔平ねぇ。最近よくテレビで見るわよね」
有田は、モニターにちらりと目を向け、鼻で笑った。
「野球なんて、私にはよく分からないけどさ。なんか、ピッチャーもバッターもやってるんでしょ? でもさ、結局どっちつかずっていうか、器用貧乏って感じじゃない? 私だったら、どっちか一つに絞って、完璧を目指すけどね。なんでもできるフリして、結局中途半端。そういう男って、なんか嫌なのよねぇ。ああいうタイプ、昔から私、大っ嫌いなの」
有田は、雫に聞こえよがしに、声高に言い放った。それは、暗に雫のこれまでの「なんでもできるフリして、結局何もできない」という評価をなすりつけるかのような言葉だった。
その言葉に、雫のマスクの下の顔が、わずかに、しかし明確に強張った。彼女はゆっくりと顔を上げ、サングラスの奥から有田の目を見た。
(この女は…私の何もかもを否定し、嘲笑い、踏みにじってきた。そして…私の心に光を灯し、私を救い出してくれた存在を、愚弄するのか…)
雫の心の中で、冷たいマグマが煮えたぎり始める。大谷翔平の存在は、会社での無力感に苛まれていた雫にとって、希望の光だった。既存の枠に囚われず、自らの才能を信じ、常識を打ち破る彼の姿は、雫に「自分も何かを変えられるかもしれない」という、かすかな勇気を与えてくれていた。
「有田さん…」
雫の声は、掠れていたが、その奥に、抑えきれない怒りが宿っていた。
「あなたは…大谷翔平選手のこと、本当に何も分かっていらっしゃらない。彼のやっていることは、単なる『器用貧乏』なんかじゃない。彼は…『不可能』を『可能』に変えようとしている。誰もが無理だと思っていたことを、自らの努力と才能で、現実のものにしようとしているんです」
雫の言葉に、有田は驚いたように目を見開いた。普段、どもってろくに口も開かない雫が、これほど明確に反論してきたのは初めてだったからだ。
「彼が成し遂げていることは、単なる『二刀流』という言葉で括れるものじゃない。それは、既存の常識、凝り固まった固定観念に対する、静かなる挑戦なんです。世の中には、あなたの言うような『どちらか一つに絞って完璧を目指せ』という考え方が、あまりにも多すぎる。そのせいで、どれだけの可能性が潰されてきたか…どれだけの才能が、その枠に押し込められてきたか…」
雫の声は、次第に熱を帯び、淀みなく紡がれていく。
「彼は、その枠を壊そうとしている。誰もが『こうあるべきだ』と押し付ける『正解』ではない、彼自身の『真実』を追求している。そして、その姿が、多くの人々に勇気を与えているんです。あなたの言うような、偏狭な『完璧主義』など、彼には関係ない」
雫は、そこまで言い切ると、ゆっくりと立ち上がり、有田を見下ろした。サングラスの奥の瞳には、冷たい炎が宿っていた。
「あなたの言う『嫌いなタイプ』というのは、きっと、あなた自身の凝り固まった思考と、他者の可能性を認められない、その歪んだ心の現れでしょう。大谷翔平選手は…あなたの想像をはるかに超えた場所にいるんです」
有田は、雫のあまりの変貌ぶりに、言葉を失っていた。普段の小鳥遊雫からは考えられない、真っ直ぐで、そして力強い言葉の数々。彼女の全身から放たれるオーラは、まるで別人のようだった。
雫は、テーブルに僅かな現金を置き、有田に背を向けた。
「私も、あなたのような人には…あなたの言う『完璧』など、目指すつもりはありません。私は、私の信じる『真実』を、私のやり方で追求しますから」
雫はそう言い残し、カフェテラスを後にした。残された有田は、呆然とした顔で、ただその背中を見送ることしかできなかった。彼女の耳には、遠くから聞こえる大谷翔平のホームランを伝える歓声が、まるで雫の勝利を祝うかのよう響いていた。
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