第6話 一郎とハル、トランプを語る午後

縁側に差し込む柔らかな日差しの中、神崎一郎は庭の桜の木を見上げ、静かに茶を啜っていた。足元では、柴犬のハルが気持ちよさそうに丸まって寝息を立てている。午後の穏やかなひととき。だが、一郎の心は、遠い海の向こうの出来事に思いを馳せていた。

「ハルよ」

一郎は、茶碗を置いてハルの頭をそっと撫でた。ハルは小さく身震いし、片目だけを開けて一郎を見上げる。

「お前は、アメリカのドナルド・トランプという男を知っているか?まあ、知る由もないか」

ハルは「くぅん」と鳴いて、一郎の膝に頭を乗せた。

「あの男はな、奇妙な男だった。政治家というものは、表向きは理路整然と、耳障りの良い言葉を並べるものだと、わしは長年思ってきた。だが、奴は違った。まるで、わしらが普段、心の中でぼんやりと考えていることを、そのままぶちまけるような男だったな」

一郎は、遠い目をしながら語り続ける。

「彼の言葉は、論理的とは言えなかった。時に荒々しく、時に矛盾だらけでな。わしのような法律家から見れば、論点のすり替えばかりで、聞くに堪えないことも多かった。だが、それでも人々は彼に熱狂した。なぜだと思う?」

ハルは、退屈そうにあくびをした。

「そうか、お前には分からんか。だがな、ハル。あの男は、人々の心の奥底に眠る**『不満』や『怒り』**を、見事にすくい取っていたのだ。既存の政治やメディアに不信感を抱き、置き去りにされたと感じていた者たちが、彼の言葉に救いを見出した。まるで、『お前たちの言いたいことは、俺が全部言ってやる!』とでも言っているようにな」

一郎は、再び茶を一口啜った。

「彼は、『失われた誇りを取り戻す』と叫んだ。単純な言葉だが、それは人々の心を強く揺さぶったのだろう。複雑な問題を、単純な『敵』を設定することで解決しようとした。移民、中国、そして『フェイクニュース』を流すメディア。分かりやすい敵を作り、人々を結束させた」

ハルは、一郎の言葉を聞いているのかいないのか、再び目を閉じて寝息を立て始めた。

「だがな、ハル。彼のやり方は、社会に深い亀裂を生んだ。言葉は、時に人を救いもするが、人を傷つけ、分断することもできる。彼の言葉は、まさにその両面を併せ持っていた。多くの者を熱狂させる一方で、多くの者を深く傷つけた。それは、小鳥遊さんや、桃田の言葉にも通じるものがあったな」

一郎は、ハルの柔らかな毛並みをゆっくりと撫でた。

「わしはな、この世に絶対の『真実』など存在しないと思っている。光があれば影があるように、表があれば裏がある。彼もまた、その『真実』の一側面だけを切り取って、大衆に提示した。そして、それが狂気へと繋がっていく危険性も孕んでいた。あの男の言葉は、まるで歪んだ鏡のようだったな」

ハルは、一郎の言葉に反応するように、小さく鼻を鳴らした。

「だが、それでもだ。彼の出現は、これまで見過ごされてきた、人々の心の奥底に渦巻く感情を、白日の下に晒した。社会が抱える病巣を、あからさまにしたとも言える。それは、決して無意味ではなかったのかもしれない」

一郎は、空を見上げた。どこまでも広がる青い空。

「結局のところ、人々が本当に求めているものは、耳触りの良い『綺麗事』だけではないのだろう。時に、荒々しく、不器用であっても、自身の感情を代弁してくれる存在を求めるものなのかもしれない。そして、その中で何が『真実』であるのかを、それぞれが見極める力を養うこと。それが、この混沌とした時代を生き抜く術なのだろうな」

一郎は、静かに目を閉じた。ハルの穏やかな寝息だけが、縁側に響いていた。彼らの「真実」を巡る旅は、これからも続いていく。それは、遠い海の向こうの出来事と、この穏やかな日本の日常が、見えない糸で繋がっていることを示唆しているかのようだった。

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