第5話 桃田と影山:トランプを語る夜
薄暗いバーの片隅、ジャズが気だるく流れる中、桃田和樹はグラスのブランデーをゆっくりと傾けていた。作家として名を馳せ始めたばかりの彼は、まだ世間の注目を集めきれていない、ある種の焦燥感を抱えていた。向かいに座る影山徹は、爬虫類を思わせる細い目で桃田の表情をじっと見つめている。彼が桃田の裏方を務め始めた頃の、まだ関係が歪む前のひとときだった。
「先生、最近の世論動向について、興味深いデータがあります」
影山が切り出した。彼の声はいつも通り感情を読ませない。桃田は気だるげにグラスを回した。
「世論など、常に移ろいゆくものだろう。それよりも、次の構想について何か面白い話はないのか?」
「ご冗談を。世論こそが、この国の行く末を決めるものです。特に、国外の動向は、日本の未来を占う上で不可欠です。例えば、アメリカのドナルド・トランプの動向について、先生はどうお考えですか?」
影山の言葉に、桃田の眉がわずかに動いた。
「トランプか……あのような男が、なぜあれほど大衆を熱狂させるのか、最初は理解に苦しんだものだ。だが、最近は彼の言葉に、ある種の真髄を見るようになった」
桃田は、ブランデーを一気に飲み干し、氷を揺らした。
「彼は、既存の政治家がひた隠しにしてきた、あるいは見て見ぬふりをしてきた『本音』を、何の躊躇もなくぶちまける。それが、民衆の鬱積した不満を代弁しているかのように響くのだろう。理屈ではなく、感情に直接訴えかける力。それが彼のカリスマの源泉だ」
「ご明察です、先生」影山は静かに頷いた。「私の分析では、トランプ氏の支持層は、既存のエリート層への強い不信感と、漠然とした『失われた誇り』への渇望を抱えています。彼はその感情を巧みに刺激し、『自分たちこそが正義だ』という一体感を生み出している。そして、その『正義』を絶対視させるために、明確な『敵』を設定**する」
「敵か……」桃田は呟いた。「なるほど。メキシコからの移民、中国、そして『フェイクニュース』を流すメディア。分かりやすい構図だ。大衆は、複雑な真実よりも、単純な物語を求める。そして、その物語の中で、自分たちが『正義』の側に立つことを渇望する」
桃田の目が、鋭い光を宿し始めた。影山は、その変化を静かに見つめていた。
「しかし、先生。トランプ氏の手法は、あまりにも短絡的すぎます。彼の言葉は、社会を深く分断し、国際的な孤立を招きかねない。一時的な熱狂は生み出せても、持続的な支持を得るには限界があるでしょう」
影山は、グラスに注がれた水をゆっくりと飲んだ。
「彼は、大衆の感情を操ることはできるが、その感情の『質』をコントロールできていない。最終的に、彼の言葉は『憎悪』しか生み出さない。それでは、真の変革は起こせません」
桃田は、影山の言葉に少し不満そうな表情を浮かべた。
「では、お前ならどうする?」
「私ならば、その『憎悪』を別の感情へと昇華させます。例えば、『愛国心』という大義名分のもと、『失われた誇り』を再構築させる。そして、外部の敵だけでなく、内部に潜む『腐敗』にも目を向けさせる。ただし、その『腐敗』の定義は、私の意図する方向に誘導する。複雑な問題を、より高尚な『物語』へと昇華させるのです」
影山の口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、桃田には理解できない、冷徹な計算と、ある種の倒錯した愉悦を含んだ笑みだった。
「そして、先生。その『物語』を紡ぐのは、他ならぬ先生の言葉です。私は、その言葉が、より多くの人々の心に深く響き、永続的な影響を与えるための『舞台装置』をご用意しましょう。トランプ氏のようにただ感情をぶちまけるのではなく、先生の言葉には、もっと**『文学的な深み』と『論理的な説得力』がある」
影山の言葉に、桃田の顔色が変わった。彼の瞳には、新たな野心と、そして自身の才能が正しく評価されたことへの満足が宿った。
「面白い。続けてみろ、影山」
その夜、桃田と影山の間で、日本の「真実」を巡る、後の世に大きな波紋を呼ぶことになる「物語」の青写真が、密かに描かれ始めたのだった。トランプという異国の「カリスマ」を巡る議論は、彼らの野望を加速させる、ある種の触媒となったのである。
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