第2話 池田教授と藤原聡美の「ホリエモン」論
池田大吾教授の研究室には、今日も今日とてインクと古書の匂いが充満している。壁一面を埋め尽くす分厚い専門書と、インクの染み付いた古びた資料。教授自身、白髪交じりの髪は常にボサボサで、着慣れたツイードのジャケットの肘には擦り切れが見える。いかにも大学教授然としたその風貌とは裏腹に、彼の眉間の皺は今日も一段と深い。その眉間の原因は、研究室の片隅で黙々とペットボトルのお茶を啜る藤原聡美だった。そして、その匂いの中に、ごく微かにペットボトル特有のプラスチックの香りが混じっていた。
藤原は、実年齢25歳には到底見えない、まるで中学生のような小柄な体躯で、今日もオーバーサイズのパーカーとだらしないスウェット姿だ。彼女のトレードマークである分厚いメガネの奥の瞳は、手元の携帯ゲーム機に釘付けになっている。
「藤原君。またこの男かね?」
教授の声には、呆れと諦め、そしてごく僅かな心配が入り混じっている。藤原はちらりと教授に視線を向けたが、反応は薄い。彼女の手元のタブレットには、間違いなく「堀江貴文」の顔が大写しになっていた。昨日も一昨日もそうだった。
「はい。現在、彼の『既存概念への破壊的言動』が社会に与える影響度について、データ解析を行っております。」
藤原は、お茶を啜りながら淡々と答える。ピコピコと鳴るレトロゲームのBGMが、彼女の作業のBGMに同化している。
「だがな、君。この男の言動は、あまりにも『煽情的』ではないかね!『寿司屋にFラン大学生』だの、『飲食店はマスク警察』だの、いちいち世の中を引っ掻き回すようなことばかり言って!私は彼の『改革』という大義の陰に、ただの『承認欲求』と『金儲け』が見え隠れするように思えてならない!」
池田教授は、まるで自分の道徳観が危機に瀕しているかのように声を荒らげた。自身のランチは、妻が愛情込めて作ってくれた具だくさんの弁当だ。ホリエモンの発言を見るたび、胃がキリキリと痛む。
「『煽情的』という感情的表現は、科学的根拠に乏しいかと。彼の言動は、『社会が内包する矛盾や不満を顕在化させ、それを言語化する』という点で、極めて効率的です。これにより、彼の支持層は『自分たちの代弁者』としての彼を強く認識します。また、『承認欲求』と『金儲け』は、人間の行動原理において普遍的な動機であり、それ自体が非倫理的であるというデータは存在しません。」
藤原は、冷静に反論した。
「普遍的だと!? 君は彼の『思考停止』を是とする姿勢をどう評価するのだ!『ググれカス』の一言で片付け、深く考えることを放棄させる!それが新しい時代だとでも言うのかね!?」
教授は、身振り手振りで熱弁する。藤原は、フーフーとお茶を冷ましながら、冷静に続けた。
「『思考停止』ではありません。『情報過多社会における判断の最適化』と解釈すべきです。彼は、ユーザーが情報収集に費やす時間を短縮し、『本質的な行動』へと移行することを促しています。これは、限られた時間リソースの有効活用であり、効率的な情報処理の一形態です。また、彼の『自信に満ちた断定的な発言』は、情報不信に陥りがちな現代人にとって、『確固たる指針』として機能し、意思決定の負荷を軽減させます。」
「馬鹿な!それではまるで、君の体が『効率性だけを追求する究極の最適化マシン』だとでも言いたいのかね!?」
「その認識で概ね問題ありません。」
藤原はきっぱりと言い放ち、再びゲームに没頭し始めた。池田教授は、がっくりと肩を落とした。彼の教え子は、あまりにも合理的すぎた。
「あのな、藤原君。人間というのはな、効率や最適化だけでは生きていけないんだぞ。時には、無駄な回り道をすることも、非効率なことに時間を費やすことも、大切なのだ!それが、人間としての『豊かさ』というものだ!」
「『豊かさ』ですか。感情的要素は、現時点での私の研究計画には含まれておりません。」
藤原は、まるで辞書を引くかのように答える。池田教授は、もう怒る気力もなくなった。彼はそっと自分の弁当箱を開き、卵焼きを箸でつまんだ。
「だいたいな、藤原君。その男の炎上発言のせいで、SNSのタイムラインが荒れて困るのだ!君の効率性というやつは、周囲への『精神的負荷』という点では、全くもって非効率ではないかね!?」
「精神的負荷は、個人の『情報耐性』に依存します。私の作業効率には影響ありません。また、教授の主観的評価は、一般的なデータとしては採用できません。」
藤原は、ぴしゃりと言い放ち、ゲームのレベルをクリアした。そして、慣れた手つきで携帯ゲーム機を机に置いた。その一連の動作に、一切の無駄がない。
「ハァ…まったく、人の心を理解できないロボットめ…。」
池田教授の呟きは、虚しく研究室に響き渡る。藤原は、そんな師の葛藤には目もくれず、次の解析データを開き始めた。ピコピコという電子音が、彼の胃の痛みをさらに刺激する。
(よし、明日は…無理やりにでも外に連れ出して、美味いラーメンでも食べさせてやるか。藤原君のデータには載っていない『人生の旨味』というやつを、教えてやらねばな…!)
池田教授は、心の中で密かに、そして壮大な「藤原聡美改造計画」を練り始めるのだった。だが、それが彼女にとって「非効率」な努力であることは、彼だけが知らぬままだった。
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