架空『情熱大陸』
ばこ。
古書店を営む女性 橘志乃
午前十時、古びたガラス扉の向こうで、小さな鈴が鳴る。
東京の片隅、駅から少し離れた坂道を下った先に、商店街の名残のような並びがある。その一角に、
木製の看板には、すこしかすれた手描きの文字。飴色に磨かれた床、静かに並ぶ古書の棚。入り口から店の奥まで、風が抜けるときの音が、まるで呼吸のように感じられる。
彼女はいつものように椅子に腰かけ、一冊の詩集を膝に載せていた。
朝の掃除を終え、湯気の立つカップから漂う紅茶の香りに目を細める。
読書をしているようでいて、誰かの足音を、かすかな気配を、ずっと待っている。
たくさんの人が通り過ぎていく日々のなかで、本当に立ち止まる人は少ない。けれど、彼女はその一瞬のために、今日も店を開ける。
時間に追われるでもなく、目的地を急ぐでもなく、ふと「何か」を探してしまった誰かを、そっと迎えるように。
出版社に入ったのは、大学を出てすぐのことだった。
大手ではなかったけれど、志乃にとっては夢のような場所だった。机の上には原稿が積まれ、電話がひっきりなしに鳴る。昼夜の区別はほとんどなく、それでも誰も不満など言わなかった。
本が好きだった。
読むのも、書くのも、編むのも、誰かに手渡すのも。
子どものころから、友だちよりも図書館の窓辺を好んだ。世界は狭くて、けれどページの向こうには何百通りもの人生が広がっていた。
編集者としての生活は、目まぐるしかった。
新人作家と夜通しやり取りをし、プロットに首をかしげ、校了紙を抱えて印刷所に駆け込む。
深夜のオフィスでコーヒー片手に明け方を待つことも珍しくなかった。
自分の手が、誰かの言葉を形にする。その高揚感が、すべてを支えていた。
けれど、それはいつからか、重さに変わった。
数字、部数、話題性。企画が通らなければ、何も始まらない。
言葉よりも「売れるか」がすべての会議。
志乃は、少しずつ、自分が誰のために働いているのか、わからなくなっていった。
ある朝、電車を降りるはずの駅を通り過ぎていた。
座席に身体を沈めたまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
ただ風景が流れていくだけだったのに、涙が出てきた。
理由は、わからなかった。ただ、限界だったのかもしれない。
その日から、出社できなくなった。
会社には「体調不良」という言葉だけを残して、しばらくして退職した。
地元に戻り、実家の二階の部屋に閉じこもるようになった。
ベッドの上で何をするでもなく、ただ日々が過ぎていった。
そんなある日、押し入れの奥を何気なく開けると、埃をかぶったダンボール箱が目に入った。
中には、かつて自分が読んだ絵本や、児童文学、付箋だらけの詩集が詰まっていた。
どれも背表紙が擦り切れ、ページは黄ばみ、誰のものでもないような顔をしていた。
志乃は、そのうちの一冊を取り出し、膝に載せた。
それは、小学生のときに図書室で何度も借りた本だった。
何度読んでも展開がわかっていて、セリフまで覚えているのに、どうしても好きだった。
そのときも、特別な期待があったわけではない。ただ指先が自然に開いたページに、ひとすじの光があった。
「読んでいたのは、あの頃の私じゃなくて、きっと“今の私”だったんです」
後にそう語った志乃は、そのとき、久しぶりに笑っていた。
それからのことは、自分でもよく覚えていない、と志乃は言う。
本棚を買い、本を磨き、地元の古本屋を巡っては一冊ずつ買い集めた。
派手な本ではなかった。昔の詩集、読み捨てられた随筆、名前の知られていない小説。
けれど、どれもが誰かの人生をそっと映すような、そんな本ばかりだった。
そして、ある日。
かつて雑貨屋だった空き店舗に「貸します」の紙が貼られていた。
通りがかりの風に、その紙がはためいていた。
直感だった。志乃はその場で連絡を取り、次の春には『灯書堂』が生まれていた。
「人が本を探すんじゃなくて、本が人を待っている。
そんな場所があってもいいと思ったんです」
その静かな信念が、この小さな古書店を生んだ。
誰かに必要とされなくなった本たちと、少し疲れた誰かの時間が、そっと交わる場所として。
静けさの中にも、日々は確かに動いている。
灯書堂は、開店と同時に人で賑わうことはない。むしろ、誰も来ない日のほうが多いくらいだ。
けれど志乃は、それを「寂しい」と思ったことはない。
「人って、本当に本を必要とするときにしか、本屋には来ない気がしてて。
その“本当の瞬間”に出会えるのなら、十分すぎるくらいです」
午前中はいつも、掃除から始まる。
古い本棚の隅に積もる埃を、柔らかい筆で払いながら、志乃はときおり背表紙をなでるようにして触れる。
それは、まるで誰かの額にそっと手を置くような仕草だった。
昼すぎ、ようやく一人、客が来る。
大学生らしき青年だった。
リュックを背負ったまま、文芸棚の前に立ち尽くしていた。
「何か、お探しですか」
志乃の声は、静かに届く。
彼は少し驚いたように顔を上げた。
「......小説を、読みたいんです。
なんかこう、今の自分から抜け出せそうなやつ」
具体的なタイトルも、ジャンルも言わない。けれどその曖昧さが、むしろ本気なのだと志乃にはわかる。
本当に沈んでいる人間ほど、「こういうの」と言葉にする力すら失っている。
志乃は、棚の奥から一冊を抜き取った。
無名の作家が書いた短編集。静かで、寡黙で、けれど読者の奥底をそっと掬い上げるような文章。
「派手さはありませんよ。でも、しばらく心のなかに残ってくれます」
青年は戸惑いながらも受け取り、レジに向かった。
去り際、ふと立ち止まり、彼は小さな声で言った。
「ありがとうございました。......なんか、呼ばれた気がしたんです、この店に」
志乃は、その言葉に深くうなずいた。
開業から十二年。
目立った宣伝もしなければ、ネット販売もしていない。
けれど、ぽつりぽつりと訪れる客たちは、まるで風のようにやって来て、痕跡のように一冊を置いて去っていく。
ある日、手紙が届いた。
便箋には達筆な文字で、かつてこの店で詩集を買った女性が、病気の療養中にどれだけその本に支えられたかが綴られていた。
「一ページ読むたびに、少しだけ呼吸がしやすくなりました。
あのとき、本を選んでくださってありがとうございました。
あなたの静けさが、私の夜を守ってくれました」
志乃は、手紙をしばらく机の上に置いていた。
その重みを、胸の奥に沈めながら。
もちろん、現実は美しいだけではない。
店の売り上げはぎりぎりだ。
店の光熱費を払ったあとは、最低限の生活費を残すだけ。
友人には「副業でも始めたら?」と助言されることもある。
だが志乃は、首を振る。
この空間の温度と匂いと沈黙を壊すことが、どうしてもできなかった。
灯書堂は、誰かの「逃げ場」であると同時に、彼女自身の「居場所」でもあるのだ。
あるとき、商店街の会合で、隣の金物屋の店主が言った。
「橘さん、うちはあと何年もたないよ。だけど、あんたの店だけは、なんとか続いてほしい」
冗談めかしていたが、その目は真剣だった。
何かを「守る」ことは、何かを「失ってもなお残す」ことなのかもしれない。
誰もが速度を上げて生きていくこの時代に、立ち止まることを許す空間。
それが志乃の店であり、彼女が日々選び続けている道だった。
最近、ある企画が持ち込まれた。
地元の高校の図書委員会が、町の本屋を紹介する冊子を作るという。
灯書堂にも取材依頼が来たのだ。
最初、志乃は断ろうと思った。
派手に紹介されても、店の姿勢は変えられない。
けれど、ふと、かつての自分の姿を思い出した。
言葉に支えられ、静けさに救われたあの日の少女。
あの子に、今の自分が何を差し出せるだろう――そう考えて、志乃は小さくうなずいた。
取材の日。
やってきたのは、制服の上にカーディガンを羽織った、少し緊張した様子の女子生徒だった。
彼女は志乃に、こう尋ねた。
「どうして、このお店を続けているんですか?」
志乃は、その問いに即答しなかった。
少し考え、目の前の静かな本棚に視線をやりながら、ゆっくりと口を開いた。
「うまく言えないけど......。
この店にいると、自分が“無理じゃない”って思えるんです。
だから、ここで待っていたいんです。いつか、誰かが必要としてくれるかもしれないから」
少女は、志乃の言葉を一字一句逃さずに書き留めていた。
それは、志乃が編集者だった頃には見えなかった「届け方」だった。
転機は、ある雨の日の夕暮れだった。
その日は開店以来、誰ひとりとして訪れなかった。
湿った空気の中で本の匂いも少し重く、電球の灯りだけが心細く光っていた。
閉店の支度を始めようとしていたそのとき、ドアがわずかにきしんだ。
入ってきたのは、小さな男の子と、その母親だった。
ずぶ濡れの傘、しっかりと手を繋いで、緊張した面持ちで本棚を見渡す親子。
「ごめんなさい、ちょっとだけ雨宿りさせてもらってもいいですか」
母親は申し訳なさそうに言った。志乃は微笑みながら頷いた。
男の子は濡れた袖を気にしながら、小さな手で棚の一冊を抜き取った。
それは、かつて志乃が子どものころに何度も読んだ童話集だった。
男の子はページをめくるたびに、ぽつりぽつりと声に出して読み始めた。
「......ねぇ、お母さん、これ、買ってもいい?」
その声に、母親は少し戸惑いながらもうなずいた。
会計のあと、志乃が紙袋に本を入れて手渡すと、少年はまっすぐ彼女を見て言った。
「ありがとう。...この本、ぼくを呼んだんだよ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと音を立てて締めつけられた。
かつて、まさに自分が同じように感じたあの瞬間。
「呼ばれた」という感覚。
忘れていた“はじまり”が、確かにそこにあった。
――誰のためでもない、自分のためでもない。
ただ、本と誰かが出会うための場所。
その橋渡しをすることが、いつしか彼女の呼吸になっていた。
その夜、志乃は灯りを消したあとも、店の中でひとり椅子に座っていた。
息をするように続けてきた日々が、ただの習慣ではなく、選び続けた生き方だったのだと気づいた。
彼女を突き動かしていたのは、「情熱」でも「使命感」でもなかった。
それは、誰にも言葉にされないまま置き去りにされた“気配”や“予感”に、静かに寄り添いたいという、名もなき願いだったのだ。
夜が深まり、商店街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
『灯書堂』の看板も、その灯を落とし、静かに眠りの中へ沈んでいく。
けれどその内側には、まだぬくもりが残っていた。
読まれた本のページがわずかに開いたまま、風の音を受けている。
志乃は、閉店後の静かな店内で、今日読みかけていた詩集をそっと閉じた。
その詩の最後には、こんな一節があった。
「あかりは消えても ぬくもりは まどべに残る」
声に出すでもなく、ただ口の中で転がすように繰り返しながら、志乃はふと考えていた。
これからも、商売としては成り立たない日があるだろう。
この店の存在に気づかないまま通り過ぎていく人の方が、きっと多い。
それでも、それでも、と、心の奥で誰かが呟いている。
「なくても困らないけれど、あってくれたら少しだけ嬉しい」
そんなもののひとつとして、この店が、ここに在れたら――。
翌朝、いつものように店を開けると、見慣れない封筒がポストに挟まっていた。
中には、一枚の短い手紙と、折り紙で折られた小さな鶴。
差出人は書かれていない。
「昨日、お世話になりました。
本を読んでいる間だけ、心の中の雨が止みました。
また、あの場所に帰ってきたいです」
名前のない誰かからの、その言葉だけで、志乃はまた今日を始められる。
情熱という言葉が、どうしても似合わない人生がある。
声高に夢を語るでもなく、大きな舞台で何かを成すわけでもない。
それでも、灯のように、確かに誰かの足元を照らす人生がある。
橘志乃の物語は、誰にも語られないページのように、静かにめくられていく。
誰かが必要とする、そのときまで。
今日もまた、ページは風に揺れ、扉の鈴が、小さく鳴る。
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