第2話「影の噂、回り出す刃」

 酒場の灯りは薄暗く、煙草の煙が天井に渦を描いていた。

 ラズ、ティリ、フォルドの三人は、長テーブルを囲んで座っていた。

 探索から戻ったばかりの身体に、じわりと疲労が染みていた。


「半年も、あの迷宮を一人で彷徨ってる奴がいるらしいぞ」

 隣の席から、酒の勢いに任せた男の声が飛んできた。

「黒影の亡霊って呼ばれててな。剣士らしいが、誰も正体は知らねぇ。人か幽霊か、それすら怪しい」


「姿も見えねぇのに、魔物をまとめてぶった斬って消えるらしいぞ」

 別の男が続ける。

 誰もが半分面白がって、半分本気で恐れていた。


 ティリが、眉をひそめてつぶやく。

「一人で……半年……怖くないのかな……」


 ラズは静かにグラスを傾ける。

「やつの正体が分かれば、少しは安心できるかもしれないな」



 翌日。

 再び《黒影の回廊》へ向かう山道。

 その道の途中に――あの赤髪の剣士が歩いていた。

 

 クレア。


 無言のまま通り過ぎようとする彼女に、ラズが声をかけた。


「黒影の亡霊って知ってるか?」


 クレアは足を止める。

 数秒の沈黙ののち、背中を向けたまま言う。


「ああ……俺のことらしいな」


 その声音に、揺らぎはなかった。

「半年、この迷宮を一人で彷徨い、戦い続けている」


 ティリが遠慮がちに尋ねる。

「怖くなかったの?」


 クレアは振り返った。

 鋭い金の瞳が三人を射抜く。

 そして、冷たい刃のように言い放った。


「恐怖を感じる暇があったら、次を斬る」


 その言葉に、三人の口は自然と閉じられた。

 クレアはそれ以上語らず、先頭を切ってダンジョンへと踏み込む。


 三人はその背中を追った。



 迷宮の瘴気は以前より濃く、空気は肌にまとわりつくようだった。

 魔物の気配も、どこかざらついている。


 クレアが短く言う。


「ここから先は足手まといだ。引き返せ」


「協力してみないか?」

 ラズは笑みを浮かべて返す。

「俺たち、合わせるのは得意なんでね」


「協力する性分じゃない」

 クレアは淡々と返す。


 だが、ラズは肩をすくめた。

「じゃあ“観察”ってことにしよう。勝手についていくだけさ」


 ティリが「えへへ」と笑い、フォルドは無言で歩みを進める。


 クレアはため息をひとつ。

「……好きにしろ」



 魔物の群れとの交戦。

 クレアは単独で飛び込み、魔物を断ち裂く。

 だが、数は多く、間合いの外から毒針が飛ぶ。


 直後――ラズの結界が展開され、針を弾く。

「前に集中しろ。後ろはこっちが見る」


 ティリの速度強化が重なり、クレアの踏み込みが一段深くなる。

 フォルドの大剣が、別方向から敵の注意を奪う。

 無駄のない連携。噛み合った攻撃。敵は瞬く間に崩れた。


 クレアは気づく。

 自分の動きが、いつもより速く、鋭く、迷いがなかったことに。

 誰にも言わず、小さく呟く。


「……悪くねぇな」



 戦いのあとの沈黙。

 誰も礼も賛辞も言わない。

 それが、心地よかった。


「勝手についてくるなら、好きにしろ」


 クレアの言葉に、ラズがにやりと笑う。

「感情じゃなく、効率の話さ」


 ティリが笑い、フォルドは武器を背負い直す。


 バラバラだったはずの歯車が、音を立てて――少しずつ、噛み合い始めていた。


 しばらく沈黙のまま歩き、曲がりくねった通路を抜けた先で、一行は休憩を取った。

 瘴気の薄い岩陰。火を起こす余裕もないが、空気はまだ落ち着いている。


「……そういえば」

 ラズが、口火を切った。

「名前、聞いてなかったね。いや、こっちは勝手に知ってるけど、ちゃんと、な」


 クレアは剣を壁に立てかけながら、ちらりと彼を見やる。


「クレア。……ただの剣士だ」

 語気は淡白で、名乗り慣れていない様子だった。


「僕はラズ。魔術師。主に頭脳担当ってことで」

 続けて、ティリが元気に手を上げる。

「ティリ! 回復とか、補助とかがんばる! よろしくね、クレア!」


 クレアはその勢いに一瞬たじろぐが、何も言わなかった。

 代わりに、フォルドが低く、短く呟く。


「……フォルド」


 それだけ言って、また黙る。


 クレアは小さく鼻を鳴らし、視線を外した。

 けれど、誰にも“名乗りを拒まなかった”だけで、すでに前とは違っていた。


 それは、少しだけ遅すぎた――だが、確かな自己紹介だった。

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