命令だけで斬ってきた私が、魔剣と仲間と自由を手に入れるまで『影より出でて、剣となる』
自己否定の物語
第1話「地に這いつく者、空から来た女」
それは、罠だった。
床に刻まれた魔法陣は、長らく忘れ去られていたはずの重力魔法――かつて一つの王国を丸ごと潰したとされる、封印術の一端だった。
魔力の気配に気づいたのはラズが最初だった。だが、反応は一瞬遅れた。
魔法陣が光を放ち、重力が跳ね上がる。三人の冒険者たちは、床に叩きつけられるように膝をついた。
「……重力結界か」
ラズが苦々しく呟く。冷静に見えても、完全に想定外だった。
フォルドは巨体を震わせ、剣を支えに体を起こそうとするが動きは鈍い。
ティリの表情にも、すでに余裕はなかった。
その瞬間、ズン、と重く湿った音が天井から響く。
黒い毛皮に覆われた魔物が、壁に溶け込むように落ちてくる。
四肢で這う異形の獣――視覚よりも嗅覚に優れ、獲物の弱りを嗅ぎ取る類だった。
「詠唱、できな……っ」
ティリの声が震える。
結界は魔力の流れすら阻害し、魔導師にとっては死刑宣告にも等しかった。
魔物の爪が迫る。ラズは即座に計算を放棄する。
防げない。間に合わない。死ぬ――そう理解した、まさにその瞬間。
空気が止まった。
いや、それは“音を持たない存在”だった。
その者は、重力の檻の外から、影のように滑り込んできた。
黒い外套。足は地につかず、重力に従う気配すらない。
その手には、異様に長い黒鉄の剣。
無表情の女が、無言で剣を振り下ろす。
一閃。
魔物が裂け、血が壁を染めた。斬撃は鋭く、無駄がなかった。
「……誰?」
ティリが声を漏らす。
ラズも答えられなかった。味方か、敵か――判断を下す暇もなく、女が口を開いた。
「見てらんねぇな」
ただ、それだけ。
彼女は次の魔物へ踏み込み、重力など存在しないかのように自在に動いた。
結界はまだ消えていない。それでも彼女だけは、呪縛の外にいた。
抗魔装備か、本人の特異性か――どちらにせよ、常人ではなかった。
その間にも魔物がラズの背後に迫る。杖を構える余裕もない。
死を覚悟したその刹那――視界が白く閃いた。
ガキィン――。
魔物の首が宙を舞う。
クレアの剣が、寸分違わず急所を断ち切っていた。
常人には不可能な動きだった。
「はァ……化け物かよ」
ラズが息を吐く。
だがクレアは返事もせず、返り血を払うと短く呟いた。
「終わり、だな」
魔法陣の光が散り、重力の圧が消える。
術式の中心が破壊され、結界が解除されたのだ。
ティリが崩れ落ちた。
ラズがすぐに駆け寄り、彼女を支える。
仲間が生きている。まずは、それだけで十分だった。
「……助かった。報酬なら支払う」
それは当然の申し出だった。
ラズは理で動く男だ。借りには対価を払う。それが筋であり、矜持でもある。
「報酬はいらん」
クレアは振り返らずに言った。
その声に、微塵の迷いもなかった。
「俺は報酬じゃ動かない」
それは正義でも、博愛でもない。
ただ、彼女の中にある“何か”が突き動かした結果だった。
「でも助かったよ。ありがとう。」
ティリが弱々しく笑いながら言った。
その一言に、クレアの足がわずかに止まる。
しかし、彼女は何も返さず、そのまま歩き出した。
感情を悟らせぬように。
フォルドがゆっくりと立ち上がり、無言のままその背中を見送る。
すれ違いざま、クレアがぽつりと呟いた。
「群れは苦手だが……まあ、今は、悪くない」
それは誰に向けた言葉でもなかった。
ただ、重力から解き放たれた世界の中で、ふと口をついて出た独白だった。
重力結界が消え、静寂が戻ったダンジョンの奥で、三人は深く息をついた。
ティリは肩で息をしながら、まだ足元がおぼつかない。
ラズはその様子を確認すると、すぐに判断を下した。
「撤退だ。これ以上の進行は無理だな」
言葉に重ねるように、フォルドが黙ってうなずく。
ティリは申し訳なさそうに目を伏せた。
ラズが「来た道を――」と言いかけた、その瞬間。
「戻るのはやめておけ」
低く、鋭い声が割り込んだ。クレアだった。
彼女は壁際に立ったまま、視線も向けずに言葉を続ける。
「撤退するんだろう? だが、来た道を戻るのは危険だ。ここは、そういう場所だ」
断定する口調だった。
ラズは言葉を飲み込み、代わりにクレアを注視した。
何の地図も手にせず、ここがどんな構造かを知っているような言い方。
初めて来た者の反応ではない。
「案内してやる。こっちだ」
クレアは振り返らず、闇の奥へと歩き出した。
誰も返事をしなかったが、ラズたちは自然とその背を追っていた。
彼女の進む道に、迷いはなかった。
狭い通路の脇に仕掛けられた糸罠を、言葉もなく避ける。
頭上から音もなく落ちてきた石板のトリガーを、足先ひとつで無効化する。
それは経験ではなく、“知っている”者の動きだった。
ラズは歩きながら、彼女の背中を盗み見る。
何者だ。この女は――。
そんな視線に気づいてか、気づかずか。
クレアは足を止め、わずかに顎を動かした。
「この先に裂け目がある。地上へ通じる隙間だ。魔物の活動時間も読めない。時間はかけるな」
ラズは答えず、ただ小さく頷いた。
ティリも何か言おうとしたが、それを飲み込み、静かに歩を進める。
クレアはその様子を振り返ることもなく、ただ前だけを見ていた。
彼女にとってそれは、仲間を導く行為ではなかった。
ただ“無駄な死を避けるための最適行動”だったにすぎない。
裂け目の先は、冷たい夜風にさらされた森の縁だった。
月は雲に隠れ、光はわずか。だが、重力の呪縛から解き放たれた空気は、深く静かに肺に沁みた。
ティリがその場に膝をつき、大きく息を吐く。
フォルドは無言で周囲の警戒を続け、ラズはクレアを振り返る。
その女は、やはり何も言わないまま、森の奥――ダンジョンの入口の方へと向かって歩き出していた。
「……戻るのか?」
ラズが問う。クレアは足を止めず、ただ短く返す。
「拾い忘れたものがある」
何を、とは言わなかった。
誰も追及しなかった。
彼女が口にしないことには、理由がある。誰もがそう直感していた。
クレアは一歩を踏み出す前に、ふと空を見上げた。
そして、背を向けたまま、ぽつりと続ける。
「……こっちの空気は、軽すぎる」
その言葉の意味は、誰にも分からなかった。
ただ、彼女の背中が――この場所には属さない何かを背負っているのだけは、はっきりしていた。
「また……会えるかな?」
ティリの声が、森の静寂に吸い込まれる。
クレアは立ち止まり、ほんの一瞬だけ間を置いた。
そして、小さく答える。
「迷わなければな」
そのまま、闇の中へと姿を消していった。
足音すら残さず、風と同じように。
迷宮を脱し、森沿いの小道に出たのは、夜も深くなってからだった。
近くの岩陰に腰を下ろし、簡単な野営を組む。火を囲みながら、誰もが疲労に沈んでいた。
焚き火の音だけが、微かに響いていた。
薪が爆ぜ、風が木々を揺らす。けれど、誰も口を開こうとはしなかった。
「……一体、何者なんだ」
ラズが、火を見つめながら呟いた。
ティリは答えなかった。
フォルドもまた、黙して火をくべ続けるだけだった。
誰かが話せば、崩れてしまいそうだった。
だから三人は、その夜を超えるまで――
ただ黙って、火を見つめていた。
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