3 再会

 中学に入り、バスケ部に入部していくらか経つと、そこまで強くいじめられることはなくなった。だんだんと自信と友達を得て、高校に入学するころにはいじめの記憶は薄れ、人と自然に関われるようになっていた。ひとりで読書に没頭する時間は減った。


 高校に入学して慌ただしく四月が過ぎる。中学の頃と同じくバスケ部に入ると、友達ができた。自然にテレビやお笑い芸人の話題で笑い合って、クラスメイトの軽めの噂話なども聞くようになった。


 その日も部活が始まる前の時間、友達と話しながら、ちょっとした準備運動をしているときだった。


「マドンナ来てるじゃん」と囁かれた。


「マドンナ?」


 昭和感漂うあだ名に戸惑いながら、桑山が指したほうを見ると、たしかに一際目を惹く女学生がいた。


 目は大きくくりくりっとしていて、少し厚めのぽってりとした唇には赤いリップ。鼻筋は通っていて、顔色は青白いといってよいほど血の気がない。おまけに髪の毛が真っ黒で、背中半ばまで伸ばされている。おれは彼女のひとりもいないし、女性の美というものに詳しくはないが、まあ相当の美人なのだろう。美人だから目を惹いているに違いない。


 彼女は体育館入り口で、ほかのバスケを見に来た生徒たちに混じって、視線をこちら側に投げかけていた。


「ほーなんか昭和臭いあだ名だな」


「なんか知らんがみんなそう呼んでる」


「へえ」


 顔つきにどこか脳の奥がちくちくと刺激されるような気がしたが、おれはそのときなにも思い出せなかった。


 名前を聞くまでは。


「おい、あれ。紫藤リンネだ。朝から見れるなんてラッキーかもしれん」


「……リンネ?」


 おれは下駄箱の前で、山崎に腕を突かれて、そちらを見た。そこにはあの数日前マドンナと言われていた少女が靴を履き替えるところだった。


 リンネという名前に纏わる記憶が、頭のなかでぶわっと思い出の箱から飛び出す。


 放課後、ふたりきりの時間。


 無邪気に笑う君と、照れながら笑い返す〈僕〉……。


 幼いころの面影が、目の前の彼女と重なる――。


「あ、ちょ、マヒロ……?」


 気が付いた途端、おれは彼女に背を向けて足早に歩き出していた。山崎が不審そうな声をあげたが、無視した。


 おれは彼女に合わせる顔を持っていない。苗字が変わっていることも、思ったよりも近所に住んでいることも、気にならないと言えば嘘になる。けれど今更、軽々しく挨拶して近況を訊ねられる間柄ではない。頭が火照ったようにぼうっとする――。


 どうすればいいかなんて、なにも考えられなかった。ただ気付かれなければいいと思った。おれは名前も同じだし、きっと顔立ちもあまり変わっていないし、三年間、気付かれないなんて無理ゲーすぎる。でも気付かれたとて、なにを話せばいいのか……そもそもきっかけもないし。リンネにどう思われているか知るのが怖い。声をかけられない。


 もし話すのなら……彼女のほうから声をかけてくれたら話せるかもしれない、なんて。そんな淡い期待、夢物語に違いないんだけど、一瞬考えてしまった。


 実際、リンネへの男子生徒の人気は着実に高まっており、告白するやつらもしばしばいるようだった。だが、リンネはそのすべてにNOを突き返しているようだった。


 それがまた女子の反感を買った。


 おれが入学した桜川南高等学校ははっきり言って、勉強のできないやつらの集まりだ。学校は部活に力を入れているので、廊下に飾ってあるトロフィーは数が多く、華々しい。けれど偏差値にしては三十くらいか。近くに自称進学校があるのも影響しているのかもしれないが、けっこう最低に近い。


 そんななか合唱部のマドンナ――紫藤リンネは、ほとんど満点で入学したらしいと風の噂で聞いた。学校側が評価を漏らすとは思えないので、誰かの憶測なのかもしれない。そして、これは事実だが、リンネは休み時間は古典や古めの小説をずっと読んでいるらしい。リンネは見た目もいいし、友達もいるが、「陰キャ」だと言っている陰口も一緒に聞こえてきた。どうやら「マドンナ」と言い始めたのも、一部の女子が「なんだか昭和臭い」とからかったことから、ついたあだ名らしい。


 リンネのことを遠目にしているのに、情報が入ってくるのは、一部の友達――というか山崎が彼女に熱をあげているためだった。


「リンネちゃん、かわいいよなあ」


「リンネちゃんみたいな子が彼女だったらなあ」


「リンネちゃんって好きな子いるのかなあ」


 部活の練習の合間に、毎日、妄言を聞かされる身にもなってほしい。


 リンネを避けようと理性は言っているのに、状況がそうさせてくれないのは苦痛だった。


「もうそこまで言うなら告れよ。案外うまくいくかもしれんぞ」


「そう思う? 当たって砕けたら慰めてくれる?」


「はいはい、食べ放題おごってやるよ」


「頼もしい友と書いて頼友らいゆうと読む!」


「語呂悪すぎっ」


 ほかの友達のアドバイスもあり、いきなり山崎はリンネに告白することを決断した。今思うとあれは「告白ハラスメント」というやつだったと思う。だがその当時、周りには童貞で彼女のいないやつらばかりが集まっていて、女性特有の「意識していない人から告白されると気持ち悪い」という感情を理解していなかったのである。


 おれは姉とはもう中学の半ばからは口をきかなくなっていた。あのとき少しでも姉に相談していれば、山崎を止めたかもしれない。


 ともかく山崎はリンネに告白した。


 そして、リンネから、

「ごめん、なんか……気持ち悪い」

 という言葉をもらって、撃沈したのだった。






「最後によぉ……『友達からオナシャス!』って叫んだんだけど、リンネちゃん、振り向いてくれなくてぇ……」


 山崎はうわごとを吐きながら顔を覆った。指の隙間からきらりと光る筋が見える。飲んでいるのはメロンソーダなのに、さっきからずっと同じようなことを繰り返していて、悪酔いしている感じがする。


 おれは頬杖をついて網の上で肉を炙りながら、山崎の話を聞いていた。


 ここは焼肉食べ放題の店だ。約束どおり、山崎の傷心を慰めるためにおれたちは二人きりでやってきた。激安を謳う店内は賑わっていて、焼肉の良い匂いが充満している。


「うう……リンネちゃん……」


「諦められないのか?」


「……うん」


 初恋というのは、重いものだ。恋愛感情はいつもおれたちを振り回す。


 山崎の皿に盛りつけた茶色の肉は、山になっている。山崎はメロンソーダを寂しそうに啜るのみで、胸がつかえてあまり食べられないようだ。


「…………じゃあ、おれが」


 一時間以上、考えた結果だった。


 もう衝撃の出会いの四月から、六か月経っているため、忌避意識が薄れてきたともいえる。なんだか大丈夫じゃないかな、みたいな気持ちがどこかにあった。


「おれが、そのリンネちゃんと山崎が映画でも行けるように、話してみるよ」


 リンネに立ち向かおうと思った。逃げてばかりいるのは、〈おれ〉のすることじゃない。弱かったあのころとは違う。


「ほんとか、マヒロぉぉ……」


「おう」


 恋愛のいろはというものがなにもわからないおれの出した答えだった。


 手紙を出してみようと思った。聞けば山崎はリンネを手紙で呼び出したらしい。

 姉の机の引き出しから黙って、またかわいい小さなレターセットを借り、〈放課後、体育館裏で待つ〉と書いた。手紙は下駄箱に入れた。



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