2 小学生
◆
リンネがおれのいる桜川小学校に転校してきたのは、六年生の春の季節だった。
おれはそのころまだ自分を〈僕〉と呼んでいて、内向的で、図書館ばかりにこもっているような子供だった。青白くて背が低い〈僕〉は、給食も食べるのが遅くて、昼休みの教室で一人残されておかずを咀嚼していたことも覚えている。よくいじめられっこに授業中、教師の目をかいくぐって、けしかすを投げつけられる冴えない子供。それが僕だった。
リンネはたしかにみんなの前で自己紹介をし、クラスの一員になったが、僕は話しかけようとも思わなかった。リンネは女児向けのブランドものを身に着けていた。僕は姉からさんざ「あのブランドの服がほしいのに、ばあちゃんに金がないせいで買ってもらえない」という文句を聞かされていた。姉が雑誌の切り抜きをコレクションして見せてくるものだから、その服の色や形は脳裏に刻まれていた。ばあちゃんと節約しながら暮らすカースト最下位の僕と、ブランド物を買ってもらえる裕福な家庭のかわいい転校生。リンネは僕とは住む世界が違うのだと思って、関わらないようにしていた。
それが覆されたのは、年に二回ある運動会がどちらも終わった後の図書館でのことだった。放課後の図書館。図書館は二階にあって、窓からは紅く色づく山が見える。
「ねえ……マヒロ君。この本、マヒロ君も読んでたよね。どう? 面白かった?」
人がまばらな図書館で、おもむろにリンネは近寄って来てそう言った。リンネは今日も上下ともにカフェラテ色のブランドもので揃えていた。
「なんで僕がその本……借りてたこと知ってるの?」
「えーこの間、女子と遊んでるときにさ、みんなの貸し出しカード全部ぱらぱらーってしたの。そしたらさ、マヒロ君だけ、カード四枚目とかいってるんだもん。みんな覗き込んで見ちゃったよ」
「……それは」
リンネの声音にどことなく責めているような、揶揄しているような色を感じ、僕は口ごもってしまう。
「あ、べつになんか言いたいわけじゃないよ? ただすごいなーって。私、本好きだけど、塾とか習い事で忙しくって、あんまり読めなくてさ。おすすめを厳選してもらって読みたいって思ったの」
「……なるほど」
僕はそう言うのが精いっぱいだった。頬の周りが熱い。顔はきっと耳まで真っ赤になっていることだろう。茹でダコみたいになっている様をリンネに見られているのに、リンネがなにもそれについて指摘してこない。それにいっそう羞恥心が煽られた。
「それは面白いけど、本を読みなれてない人からすると、すこし難しいかも。同じミステリなら、ああ……あった。こっちのミステリは読んだことある……?」
「ない。こっちがおすすめなの? わかった。借りてみるね」
頑張って話すと、リンネは素直にそう返事をし、僕の差し出した本を借りて行った。
本を読みなれていない人扱いをしたことを、発言した後で後悔していたのだが、それに対する言及はなかった。そのことに安堵し、リンネの素直さを少し新鮮に感じた。
それから僕たちは一週間に一度くらいの頻度で、図書館で会話するようになった。かならず、ふたりきりで。
そのうち、リンネは僕の好きな作家にも手を出し始めて、二人で共通の作家の本を語れるようになった。
「佐倉先生の作品は、和製ファンタジーのなかではとびぬけていると思う」
「うん。私も。先生の作品を読むと、異世界にいけちゃう。めっちゃおもしろい!」
「新刊楽しみだな」
「うんうん! クリスマスプレゼントに新刊を頼んだ!」
僕はその時間が楽しかった。きっとリンネにとっては何気ない会話だったのに、特別に感じた。
けれど幼い僕らは親の都合に振り回されっぱなしで、三学期、卒業が近づいてきたころ、リンネは言ったのだ。
「もう会えない」
「え? なんで?」
「家庭の事情ってやつ。べつの中学に通うことになったの」
「……そうなんだ」
かろうじてそう答えた。本当は問い詰めたかった。詳細な住所とか、どこの中学に行くのかとか。文通でもいいから、リンネとつながりを持っていたかった。
でもリンネは僕のことをどう思っているのかわからなかったから、怖くてそれを言い出せなかった。リンネとこうして喋る時間はできたけど、教室での僕は依然としていじめられっこのままで、リンネにそんなことを言って嫌われて遠ざけられる可能性があると考えただけで、胸が痛んだ。それなら、このまま綺麗に終わらせてしまおう。
そう思ったけれど、やっぱり諦められなかった。
恥を忍んで姉に頭を下げてお願いし、かわいいレターセットを借りて、手紙を書いた。
〈宮古リンネ様 まだこれからも本の話がしたいです。嫌だったら無視してくれていいです。もしもお話ができるなら、この住所に手紙をください。青森県青森市……〉
僕の住所を書いて、受け身で手紙をもらえるようにした。これでリンネがたとえ沖縄に住むことになっても、完璧だと思った。
卒業式の日、だれよりも早く登校して、リンネの靴箱にその手紙を忍ばせた。
僕はわくわくしていた。緊張以外ではめずらしく鼓動が高鳴っていた。
その高鳴りは卒業式が終わり、春休みが終わり、入学式を越えて、中学に入っても続いていた。部活から帰ってくると毎日、ばあちゃんに「手紙は来てなかった?」と訊ねた。けれど高鳴りは半年経つと鳴りを潜め――一年経つと、もう、思い出せなくなった。いや、あまりに痛くて、思い出すことが嫌になった。〈おれ〉の中ですっかりリンネに手紙を出したことは、黒歴史となっていた。恥ずべき初恋の思い出として、封印された。
高校に入学してリンネと再会するまでは、おれ自身、そのことを思い出さない程度になっていた。
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